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織田五徳の憂鬱

五徳の憂鬱は、涼宮ハルヒの憂鬱よりも深刻である。

織田を取るか、徳川を取るか、揺れ動く五徳の心。
父・織田信長の命には逆らえず、涙の密告。

https://www.youtube.com/watch?v=weC5rtg7sxw

密告後「我が父は裏切りは決して許しませんから」と築山殿に注意したが、
顔を合わせられず、横を向きながらの忠告となった。

一ふで申し候。仍ちかごろ、
つきやまに、みこすがたの
うろむなる女、たびたび
御こしなされ候。ちらとみ
とめ申し候ものなれば、さほ
どに気にかくる事無御
座候へども、近日しきり
に訪申し候間、いささか
けねむ致候。さゝひなる
御事なれども御見のが
し有まじく候との申し
付けに而御座候条、まづ
まづ御つたへ申しと候。
なを、この者申しえり候あ
ひだ、詳らかにあたはず候。
           かしく
      ゟおか崎
        徳
(月日)※見えない。
(宛名)※見えない。

(一筆申し候。仍「近頃、築山に、巫女姿の胡乱なる女、度々御越しなされ候。ちらと認め申し候者なれば、左程に気に掛ける事無く御座候えども、近日しきりに訪れ申し候間、聊か懸念致し候。些細なる御事なれども、『御見逃し有る間敷く候』との申し付けにて御座候条、先ず先ず御伝え申し」と候。猶、この者申しえり候間、詳らかに不能候。かしく。 岡崎より 徳)

【意訳】一筆啓上。築山殿の監視を頼んでおいた門番から「最近、築山屋敷に、巫女装束の怪しい女が度々来ている。私は「なぜ巫女が?」と怪しく思ったが、築山殿の以前からの知り合いなのか、一目見ただけで、さっと屋敷に入る事を認めた者なので、気に掛ける必要はないと思っていたが、最近、やけに頻繁に来るので少し気になっている。些細な事ではあるが、『些細な事でも見逃さず報告せよ』と命じられていたので、まずは報告した」と聞いた。私が直接見たことではなく、この者からの伝聞であるので、これ以上の詳しい事は知らない。かしこ。

※巫女に「御こしなされ」と敬語は使わないよね?(身分は低くても、客人だから敬語?) 「申し付け」の主語は五徳だから「御申し付け」では? 当時の「条」は「條」。古文書考証は大石泰史氏。

 五徳は、築山屋敷を訪れる巫女が、武田の間者(歩き巫女の長)の望月千代だと知っているのか、いないのか。知っていて、さすがに「築山殿は武田の間者と会っている」とは書けず、「聞いた話では怪しい巫女と頻繁に会っている」に留めておいて、義母に忠告したのか。

 いずれにせよ、「怪しい巫女が頻繁に出入りしている」というだけでは、いくら織田信長でも徳川家康に「築山殿を殺せ」とは命令できない。とはいえ、織田信長は、「巫女」と聞いただけで「武田の歩き巫女」だと察知したようで、五徳からの手紙を「どう思う?」と佐久間信盛に見せる事無く、焼き捨てた。その時、織田信長は、複雑な表情を見せた。

 翌日、織田信長は、水野信元を呼び寄せ、武田方の岩村城に兵糧を入れたか問い、沙汰が出るまで岡崎預けとした。佐久間信盛は「昨日の手紙はこの事か」と納得したであろう。
 手紙が来た翌日に織田信長が水野信元を呼べたということは、織田信長は水野信元が武田方の岩村城に兵糧を入れたことを前々から知っていたが、同盟者・徳川家康の伯父であったので、見て見ぬふりをしていたということである。ところが、五徳から手紙が来て、水野信元に続いて築山殿まで武田方に回ることは見過ごせないので、複雑な表情を見せ、武田への寝返りが拡大する前に徳川家康に水野信元を誅殺させる事を通して、徳川家康に警告したのである。

 以上が2023年大河ドラマ『どうする家康』のストーリーである。

 さて、ドラマを離れ、史実かどかは分からないが、ドラマストーリーのネタはといと、『三河物語』等に、徳川家康の長男・信康の正室である織田信長の長女・徳姫(五徳)が、夫・信康や姑・築山殿(徳川家康の正室)の悪行を12ヶ条にして酒井忠次に持たせて父・織田信長に渡したとあることである。
 その書状には、
一、我が身、「姫ばかり二人産たるは何の用にかたたん。大将は男子こそ大事なれ。妾あまた召て男子を設け給へ」とて、築山殿すすめにより、勝頼が家人・日向大和守が娘を呼出し、三郎殿妻にせられし事。(築山殿は、女子しか生んでない私の事を「役立たず」と言い、「男子は妾に生ませればよい」として、武田勝頼の家臣・日向(ひなた)時昌(一説に武田昌時)の娘(母は久野氏)、一説に武田勝頼の家臣・浅原昌時の娘・於理与(母は瀬名氏)を妾にした。)
一、三郎殿、常々物荒き所行おほし。我が身、召仕の小侍従といふ女を、我が目前にて差し殺し、其の上、女の口を引きさき給ふ事。(信康は、気が荒く、私に情報を提供してくれていた侍女・小侍従を、私の目の前で「このおしゃべり女め」と言って殺し、さらにその口を手で引き裂いた。)
などと書かれていたという。

■五徳「12ヶ条の訴状」

一、築山殿、悪人にて、三郎殿と我身の仲様々に讒して不和になし玉う事。
一、我身「姫ばかり二人産たるは何の用にかたたん。大将は男子こそ大事なれ。妾あまた召て男子を設け給へ」とて、築山殿すすめにより、勝頼が家人日向大和守が娘を呼出し、三郎殿妻にせられし事。
一、築山殿、甲州唐人医師・減敬と云者と密会せられ、剰これを使とし、勝頼へ一味し、三郎殿を申しすすめ、甲州へ一味せんとする事。
一、織田・徳川両将を亡ぼし、三郎殿には父の所領の上に、織田家所領の国を進られ、築山殿をば、小山田といふ侍の妻とすべき約束の起請文を書きて築山殿へ送る事。
一、三郎殿常々物荒き所行おほし。我身召仕の小侍従といふ女を、我目前にて差殺し、其上女の口を引きさき給ふ事。
一、去頃、三郎殿踊りを好みて見給ひける時、「踊子の装束よろしからず、又踊り様、悪しき」とて、其踊子を弓にて射殺し給ふ事。      .
一、三郎殿、鷹野に出給ふ折ふし、道にて法師を見給ひ、「今日得物のなきは、此の法師に逢たる故なり」とて、彼僧が首に縄を付、力革とかやらんに結付、馬をはせて共法師を引殺し給ふ事。
一、勝頼が文の中にも、「三郎殿いまだ一味せられたるとは候はず。何ともして進め味方にすべし」との事に候へば、御油断ましまさば、末々御敵に組し候べきにやと存候故申上候。

『改正三河後風土記』

①築山殿は、私(五徳)と夫・信康の仲を裂こうとする。
②築山殿は、私は女しか産めないとして武田家家臣の娘を側室にした。
③築山殿は、唐人医師・減敬と密会し、彼を使者に武田家と内通している。
④武田勝頼は、織田、徳川両家を滅ぼし、遺領は夫・信康に与えるという。
⑤夫・信康は、私の侍女・小侍従を私の目の前で殺して口を裂いた。
⑥夫・信康は、風流踊りが好きで、下手な踊り手を弓で射殺した。
⑦夫・信康は、鷹狩りの獲物がないのを出会った僧のせいにして殺した。
⑧まだ完全に武田家についた訳ではないが、今後が心配である。

『系図纂要』

  松平信康┬女子・登久姫(小笠原秀政正室。母は五徳)
      ├女子・妙高院(本多忠政正室。母は五徳)
      └男子・万千代(母は日向時昌の娘)

■五徳の嫉妬

 ドラマや小説では、築山殿の側室・お万に方に対する嫉妬が描かれるが、どうであろう? 当時、築山殿は30歳を越えており、当事の女性なら「もう子供は生めない」と、第10回「側室をどうする!」で描かれたように、家康の側室を探し始める年齢のはずである。実際、於愛が側室となり、2人の男子を産んだ。

 一方、五徳はまだ若いので、男子・万千代を生んだ側室(日向時昌の娘)に嫉妬していた。そして、側室と信康の閨中の様子を五徳に詳しく報告して嫉妬心を煽っていた侍女・小侍従を、気が荒い信康は、「汝は我らの仲を妨ぐる者也」と言って、五徳の目の前で髪をつかんで引きずり回した上で、一刀のもとに殺し、口を引き裂いたという。

※日向時昌の娘:日向時昌の妾の子。日向時昌の母の讒言により、岡崎の町民・大須屋吉兵衛(久野氏)の許に逃げてきていた。築山殿が発見し、娘の母親に金を与えて侍女としてもらいうけた。容姿端麗であったので、信康はすぐに溺愛したという。

 武田の家人・日向昌時が妾腹の女に、某といふ者あり。嫡母の讒に因りて、其の家を追はれ、流浪して三河に至りしが、容姿嬋姸にして、大液の芙蓉、未央の柳をもあざむくべく、齢に16にて、岡崎の市人・某に寄食せり。築山殿、之を聞き、密に黄金数多を与えて召し出し、信康に侍せしめけり。
 信康は、母の勧めといひ、容色の美といひ、之を寵すること忽ち深く、酒宴に夜の深くるを知らず。翠張紅閨(すいちょうこうけい)に鶏鳴を恨みつつ、徳姫をば已に忘れしが如し。徳姫、初めは「あるやうにあるべし」とて、心にも止めざりしが、数多夜枯の連なれば、流石に妬み心の出で易く、漸く恨み心のまさりゆくも理なるべし。
 此の事、早くも信康に告ぐる者あり。曰く「徳姫の侍女・小侍従、近日の事を聞知して告げければ、徳姫の、君を恨み給ふこと甚だし」と。信康は、豪放血気の大将なり。之を聞きて何かは須叟も猶予すべき、猛火の如く怒て、徳姫の室に至り、小侍従を召して頭髪を捽し、これを膝下に敷き、「汝は夫婦の仲を妨ぐる曲者なり」と謂ひつつ、腰刀一閃、水もたまらず切り捨て、手を以て口を剖きけり。徳姫は、之を見て、戦戦兢兢(せんせんきょうきょう)、唯、涙に咽ぶのみなりき。

■五徳のあせり

 自分は女子しか生んでいない。このままでは、徳川家康のあとを松平信康が継ぎ、松平信康のあとは武田家家臣の娘が生んだ男子・万千代が継いでしまう。

※最近の学説では、「側室は正室が選ぶ」である。この説が正しければ、武田家家臣の娘を側室にしたのは、築山殿ではなく、五徳となるのであるが、五徳承認の側室ではなく、五徳未承認の妾ということか。

■五徳の孤独

現場に入ってみて、五徳という人物がいかに孤独だったかというのを知りました。それは久保史緒里としても五徳としても、撮影していて闘いというか、一番葛藤した部分です。
想像以上の孤独でしたね。もちろんすごく優しい家族の中に入れていただいて、とても温かく過ごしていたと思うんですけれども、織田家と徳川家どちらにいても、家族なんだけど家族じゃない、後ろめたさみたいなものがある。でも子どもだからその表現方法が分からなくて、空回りして、悪循環が生まれていく。自分ではどうしようもないというのがすごく苦しかったですね。

五徳役・久保史緒里
https://www.nhk.or.jp/shizuoka/lreport/article/002/58/

「五徳」の名の由来:仰向けに寝ていた時、両手足と頭を上げて天を指したという。その姿がひっくり返した5本脚の五徳に見えたので命名。信長流キラキラネームである。


 夫・松平信康の死後、五徳は再婚しなかった。松平信康を愛し続けたのか? 結婚相手が見つからなかったのか?(織田信長の長女であるから、結婚すれば確実に出世できるはずだが、松平信康や、織田信長の妹婿・浅井長政のような死に方は嫌だ。それを思うと、徳川家康の長女と結婚した奥平信昌は凄いと思う。今で言えば、大谷翔平選手と結婚したい女性が多い中で、結婚したくない女性もいる。結婚したくない理由を聞くと「結婚したら全世界の女性が姑になる。注目されて、あれこれ言われる中で、神の子を生まねばならないというプレッシャーに押しつぶされそうだから」と答えた。)

 結婚──彼氏は今のところ私を気に入ってくれているから問題ないが、彼氏のご両親や一族と上手くやっていけるか心配である。私は羽田綾華のように強くは無い。
 五徳は孤独だろうけど、織田家から気の合う侍女を連れいてきているわけで、一人ではない。
 徳川家康にしても、駿府人質時代は孤独だったと思われがちだけど、話し相手の「七人小姓」はいたし、すぐ近くに祖母・於富が住んでくれたので、孤独といっても、耐えられる範囲内だったと思う。

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