「担降り」はファンの独りよがりなんかじゃない

V6が26年の活動に幕を閉じた2021年11月1日の深夜、月曜日から夜ふかしをしたわたしは、三宅健くんのブログを読みながらあれやこれやと考えていた。

できることなら全オタクに読んでいただきたい気持ちはあるが、もう見ることは出来ない。とても残念である。

有料サイトなので引用や紹介はできないけれど、わたしはいわゆる「担降り」や「担替え」について考えさせられる内容だった。

※私自身はV6担ではなく、友人の影響で三宅健くんが好きな小学生だった過去を持つジャニオタであり、ここから先V6の解散について語ってはおりませんのでご了承ください。

好きな人を好きじゃなくなること

わたしは人生で一度だけ担降りを経験したことがある。

そもそも、なぜ担降りをするのか。それは人によって様々だと思う。「なぜ恋人と別れるのか」という理由と同じくらい、千差万別、十人十色である。

わたしのその時の気持ちとしては自分の心に小さく引っかかるものがあって、それがだんだんと大きくなり、じんわり離れていった感じ。「嫌いになれたらどんなに楽か」「心変わりしたと言えればこんなに苦しまない」と何度も思った。

なぜならわたしの場合、担降りのトリガーとなったのが「担当の不祥事」だったから。しかも突然。念願の大阪城ホールのコンサートまで、あと2週間だった。

「好きだけど、もう降りるしかない」。この気持ちは、なかなか言語化しにくい部分ではある。

ところで、サブスクで解禁されてからというもの、Ayaseさんの「夜撫でるメノウ」(セルフカバー)をよく聴いている。

メロディもさることながら、なんといっても声がよく個人的に初音ミクよりも歌詞がスッと心に染み入る。

この曲、何度か聴いている内になんとなく懐かしい気持ちになってくることに気づいた。どこかで味わったことがあるこの気持ち、何だろう。恋人と別れたときなんかじゃなく、もっと何かこう……思い出すと心がじんわり温かく、だけど寂しく切なくなる……と考え始めたところで思い至ったのが「あ、これ担降りソングだ」だった。

嫌いになれたらなら、まだよかった

以下、該当部分の歌詞を一部引用させていただきながら、ちょっとわたしの担降りの思い出を記してみようと思う。

君に届けとこの愛を
言葉にのせる毎日を
美しく思えないと
いつかは消えてしまうの
これで終わりだなんて
不思議な気持ちになるけど
元気でね
(略)
君に届けとこの愛を
言葉にのせる毎日を
息苦しく思えちゃうほど
いつから変わってしまったの?
これで終わりだなんて
まだ信じられないけれど
元気でね
(略)
君に貰ったこの愛も
この手で触れる毎日も
あんまりにも美しいから
涙が溢れてしまうよ
これで終わりだねって
最後の言葉になるけど
ありがとね

Ayase/夜撫でるメノウ

本当に好きだった。まだまだ、離れる気なんて全然なかった。これからだと思ってた。グループの活動も、それに伴うオタク活動もこれからもっと楽しくなるんだと思ってた。

でも、彼はいなくなった。

それでも2年ぐらいは待った。カウコンで復活しないかな、とかライブで復活しないかな、とか。年月が経つにつれ、だんだん期待するのがつらくなった。

飽きたなら良かった。いっそ嫌いになりたかった。でも無理だった。

自担がいなくなるというのは、10代の幼いわたしの心には、あまりにも大きい負担だった。

けれど人間とは不思議なもので、少しずつその状況に慣れてくる。それが怖くなった。わたしの中から彼が消えることだけが、どうしようもなく嫌だった。

だから決めた。「担当を降りよう」と。

彼を好きだった時間だけは、このまま綺麗な思い出としてしまっておこうと思った。

そんなとき、一度だけ彼がステージにあがったことがあった。念願の大阪城ホールに立てなかった彼は、仲間と共に初めての東京ドームに立ったのだ。それがグループとしての最後に見せた笑顔だったんだと思う。

わたしはそのときの公演に入っていないけれど、のちほど発行された写真集でその姿を見つけたとき、これで思い残すことはもうなくなったな、と清々しい気持ちだった。

「ありがとう。大好きだったよ。バイバイ」

こうしてわたしは初めての担降りを経験した。

想いは一方通行じゃない

長々とわたし個人の担降り話を垂れ流したが、歌詞を改めて読んでいくと「自分にとっての担降りソング」と思っていたものが、同時に「相手にとっての担降り“ される ”ソング」にも見えてくるから不思議だ。

そのきっかけが、冒頭の健ちゃんのブログである。

今は夢中になっていても、いつか離れるかもしれないファン。そして本当に離れていってしまったファン。わたしたちは応援する相手を選べるけれど、タレントは応援してもらうファンを選ぶことはできない。

ここでもう一度、特にここはという歌詞を引用させていただく。

君に貰ったこの愛も
この手で触れる毎日も
あんまりにも美しいから
涙が溢れてしまうよ
これで終わりだねって
最後の言葉になるけど
ありがとね

どんなに「自分たちのことを好きでいてほしい」と思っていても、ずっとつなぎとめていることは難しい。

ファンとタレントというのは、人間関係のなかで特に不思議な関係だと思う。お互い信頼関係で結ばれていながら、それは何よりも細く脆く不安定で、一方が簡単に切ってしまえるもの。そして切ってしまう方は、わたしたちファンである可能性の方がずっと高いのである。

他に応援したい人ができた。他に夢中になるものができた。もっとひどくいえば、飽きたということもあるかもしれない。
例えグループを脱退しても、事務所を退所しても、芸能人でいてくれる限り、その人自身は目に見えるところに存在している。それでもついていくのか離れるのかは、相手じゃない。こちらが決めることだ。

わたしたちは「担降りするかどうか」を悩むことができるけれど、相手は「担降りされるかどうか」に悩んだところで、決定権はない。

ファンが担当を降り「今までありがとう」「元気でね」と伝えるのと同時に、その思いは相手から数倍以上にもなって返ってくるものかもしれない。「応援してくれてありがとう」「一緒に過ごしてくれてありがとう」「新しい人と過ごす日々も元気でね」と。

櫻井翔くんと相葉雅紀くんのダブル結婚で、一時「相手の人生に全く関わっていないことを突き付けられる」というのがトレンドになったけれど、そんなことはないと思う、というのがわたしの意見だ。
自分のファンがファンじゃなくなることは、わたしたちが好きな人を好きじゃなくなるのと同じくらい大きな大きな喪失なのかもしれない。

だって、わたしだったら嫌だ。自分を好きになってくれた人が他の人に心変わりするかもしれないなんて、自分のことを好きじゃなくなるかもしれないなんて、そんなの嫌だ。

「担当を降りる」「担当を替える」というのは、ボロボロに病みがちなファンの一方的な想いなんかではなく、「ありがとう」と「元気でね」を「お互いに伝え合ってる」という意識を持つことが大切なんだと思う。それぐらいタレントにとって、ファンの存在は大きいのかもしれないよ、と思ったのであった。

そして、いつもそうやって伝えてくれる自担のことを、わたしはこれからも一生懸命応援していきたいし、この想いをちゃんと伝えていきたい。目に見える形にしたい。

ファンの気持ちは、絶対に独りよがりなんかじゃないから。

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