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温泉に逃げる。1

「ひなびた温泉」


 大学生の頃、つげ義春のエッセイ「貧困旅行記」を読んでからというもの、私の中の温泉のイメージは一変した。すごくいい本なので、一読をすすめる次第である。いやほんと。

 家族で旅行に行ったり、会社の慰安旅行で温泉に行ったり…というと、大きな規模の温泉(サウナがあるなど)だったり、宴会場があったり、ラーメン屋があったりカラオケがあったり、何かイベントがあったり(ディナーショーとか餅つき大会とか)…こういうのは、私の中では「陽」の温泉である。歓楽地としての温泉だ。悪く言えば騒がしい。

 では「陰」の温泉とは何かというと、この「貧困旅行記」に出てくるような温泉である。というと、この本を読んでない人にはさっぱり意味がわからないと思うが、まあ「鄙びた」温泉というのが一番適当かもしれない。騒ぐ人はほとんどいない。温泉以外娯楽的なものはほぼ何もない。湯治に来ている人もいる(てかそれがメインの客層だ)。まわりに何もないか、民家ばかりだったりする(コンビニなんぞ諦めたほうがいい)。

 「日本秘湯を守る会」というのがあるが、あれに近いと言えば近い。しかし、つげ義春の「貧困旅行記」に出てくるのは、さびしいというかわびしいというか絶望というか、なんていうか「この世の終わり感」が凄いのである。「貧困旅行記」の下記の一節は、それをよく物語っている。

…そういう貧しげな宿屋を見ると私はむやみに泊まりたくなる。そして侘しい部屋でセンベイ蒲団に細々とくるまっていると、自分がいかにも零落して、世の中から見捨てられたような心持ちになり、なんともいえぬ安らぎを覚える。

つげ義春「貧困旅行記」

遁世願望


 仕事をしていると時折、何もかも嫌になって逃げ出したくなることがある。はっきりいえばこの世から消えてなくなりたい。それは端的に言えば自殺かもしれないし蒸発ないし失踪かもしれないが、私にはだいぶ前から遁世願望みたいなものがあった。自分を知っている人がいない世界に行きたいのだ。世俗との繋がりをたってしまいたい。それは現実逃避なんだろうと思う。

 自殺とか失踪とかは大げさだが、この欲求を簡単に満たしてくれるものがある。鄙びた温泉やいわゆる「秘湯」への一人旅である(ソロキャンプという手もあるが、これは上級者向けだと思う)。一人で旅館に泊まるというと、昔は敬遠されたらしい(それこそ自殺を警戒されてのことだそうだ)。だが、今では普通にネットで予約できるので、堂々と予約してしまおう。そして宿についたら携帯電話を無視する。持っていかないというのはちょっとリスクが高いので、例えば電源を切るかドライブモードにしてしまう。もちろんSNSなんか死んでも見ない。そして中々読めないような本を持っていって、お茶を飲みながら本を読んで過ごす。こうして、「つながり」をデトックスするのである。

 温泉には1度か2度程度でいい。いや、好きな人は何でも入ってもいいが、私は夕食前と朝起きたとき、2回程度しか入らない。そして夕食。一人で旅館に泊まった場合、夕食は部屋か食堂もしくは宴会場で何人かで、というパターンだが、後者だと瓶ビールを片手に「まあおひとつどうぞ、お一人ですか、ご出身は」などと声をかけてくる人懐っこいオヤジがいるかもしれないが、まあそれはそれとして。部屋で食べる場合は、瓶ビールあるいは日本酒を飲み、ローカルテレビを見ながらダラダラする。そして早めに寝てしまう。

 …とここまで書いて総論的なことしか書いてないことに気づいたので、このシリーズ続く。

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