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【掌編小説】手首の傷に花丸を

 朝、3回目のアラームで目を覚まし、ベッドから身を起こし、思い至った。

 今日は特別な日。

 私は、起床後にやるべき様々なことをやろうとする。一日の始まり。その中で、ボンヤリと思考する。ああ、私は今日まで生き延びたのか、と。

 洗面所で歯を磨きながら、鏡の中の女を眺める。短い黒髪。少年のような顔。

 口の中のものを吐き出す。口の中を洗って、呟く。

「頑張って生きてきたな、私」

 長袖をめくって、両手で顔を洗う。

 ふと、左手の手首が視界に入った。

 自傷行為の傷跡が残っていた。

 手首の傷跡は、基本的には消えない。入れ墨みたいなものだ。もう、10年とか前の話、か。

 なんとなく、昔のことを思い出す。10代と20代。

 気まぐれに「地獄のような日々だった」なんて言うけど、でも、私は人並みの幸福も体験したのかもしれない。――ここまで、生き延びた。


 私は休日をゴロゴロと過ごした。夜になって、彼氏のミナトがやって来た。

「カナちゃん、誕生日おめでとう!」

 アパートのドアを開けて、顔を見せるなり彼はそう言った。その両手はホールケーキを持っていた。

 笑顔の彼に私はあきれて、「まあ入れよ」そう言って彼を部屋に招き入れた。

「高いやつだろ、これ」

 テーブルの上に乗ったケーキを眺めて、私は言う。ケーキには誕生日仕様のメッセージが刻まれている。

〈歌奈ちゃん、30才おめでとー!〉

「30歳。何がめでたいんだよ」

 私はため息をつく。

「そう言わずに。甘いもん食べたらハッピーだよ?」

 ミナトはそう言って、包丁でケーキを切っていく。この青年は、外見といい仕草といい、けっこう女性的なところがある。

「誕生日にケーキ食べるのくらい、受け入れたら? 誰かが歌ってたよ、天国は簡単に手に入るって」

「……」

 彼はニコニコと笑っている。私は、そんな彼を眺めて、泣きそうになった。

「まあ、そうか」

 私は切り分けられたケーキを取って、お皿に乗せた。フォークで掴んで一口食べると、甘ったるさが口の中に広がった。

「誕生日おめでとう、カナちゃん」

 彼は言った。

「……ありがとう」


 ミナトが帰宅した後――午前0時の少し前。私はアパートの屋上にいた。手すりを掴んで、地面を見下ろす。ここを越えたら、私は死ぬ。

 空を見上げる。星のない空。秋の夜風は冷たい。

 ずっと思っていたことがある。「青春時代が終わるなら、生きる理由なんてない」「30歳の誕生日で、世界は終わる」

 だから、私はずーっと、30歳の誕生日に自殺しようと思っていた。どうせ、生きるべき積極的な理由などない。

 私は手すりに寄り掛かる。もう少し、身体を動かしたら。

 ふと、記憶がよみがえる。

 手首を、必死に傷つけていた10代と20代。それでも生き延びた青い時代。ミナトと出会って、彼と一緒にいたこの一年。――生き延びた。

 なんとなく、笑ってしまった。

「お前、頑張ったな」


 私は部屋に戻った。結局――そして今度も――生き延びた。

 部屋には誰もいない。おなじみの独り。

 私はベッドにダイブすると、長袖の袖をめくって、左手の手首を眺めた。そこには幾多の線が走っている。あの頃、私は死にたくて傷つけたし、生きてるって感じたくって、生きたいって思って、傷つけていた。

 あの頃の感情は過去のものだ。私はもう、しない。だから、今の私に――花丸をあげたい。

「誕生日、おめでとう」

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