見出し画像

最後の読書感想文

エディティング演習Ⅱ
[課題] 最後の読書感想文を書く

きみたちは小中高校を通して何篇もの読書感想文を書いてきたはずだ。そして、今後の人生においてそれを書くことはもはや一切ない。

これはきみの20代最初の読書感想文であると同時に、人生最後の読書感想文となる。

いまあえて書く必要のない読書感想文を書くことでそれがなんだったのかを思い返そう。その上でその形式や手法とはきっぱりと決別し、これからの書評(読書感想文とは目的も作文方法も異なる)に挑戦していくために。

*文字数は1000字程度を目安とする。

*選ぶ題材は書物の形をしていて読むところがあれば内容は問わない(文学以外の小説、評論、エッセイ、実用書、マンガでもいい)。

*かつて自分が本当に書きたかった読書感想文に再挑戦してもいいし、まったく新たな題材に取り組んでみてもいい。大学生となったきみたちには楽勝なはずだ。

*ただし、形式は必ず「読書感想文」にしてほしい。そのためには読書感想文とは何なのかをあらためて考え、その形式や語り口をうまく使ってほしい(たとえば人称代名詞の効果的な使い方などにも気を配れば、あの頃の自分には書けなかった傑作も書けるはずだ)。

「現実に生きる」
 三年 土屋志野

「あなたはどの環境にいってもきっと満足できないわよ。」
 この本に出会うまでは、高校時代の担任に言われた言葉が私の心の剥けないささくれだった。今までの人生、空手、高校の文化祭、大学の勉強、何をやっても、結果が出てしまうとそこはかとない気持ちになった。目標を達成しても、得られる満足感より「もっとできたかも」という気持ちになり、誇張なしで自分に失望してきた。自分の周りが喜べば喜ぶほど、なんでみんなと同じように素直になれないのかと思い、これが小さい頃からの悩みでもあった。
 三島由紀夫の『金閣寺』と出会ったのは、大学2年の秋、高校の先輩からの勧めである。新潮文庫の表紙にはゆらめく炎に大きく書かれた明朝体の「金閣寺」と「三島由紀夫」。今から私はあの有名な三島の『金閣寺』を読むのか、読み終えることができるのかと少し不安に思いながら手に取った。
 『金閣寺』は自身の吃音と醜い容貌に悩む学僧の溝口が、同じく僧侶である父に幼い頃から「金閣寺ほど美しいものは此世にない」と言われて育つエピソードから始まる。彼にとって金閣はもはや世界を超脱した美そのものとなってしまい、鹿苑寺に修行に出されて実際の金閣を見たときも、彼の心は全く動かなかった。彼が吃音というその特性によって、思ったことと発言とが毎回うまく噛み合わず、じたばたしているうちに世界においていかれてしまうような気持ちになる部分を読むと、私は幼少時代に滑舌が悪く、うまく言葉が話せずからかわれたことを思い出した。そのとき自分の中では「こう言いたい」という理想があるのに、私が生きている現実では毎度うまく言えず意図も伝わらずに時が過ぎてしまうのだ。私の滑舌は通院して訓練したことでなんとか改善したが、元々の負けず嫌いな性格もあり、何においても自分の理想にこだわって平均以上まで練習してやろうという気持ちのベースはこのからかわれた経験にもあると気づいた。
 彼が吃音のために新鮮な現実に生きられず、美のイデアを金閣の中に見出したように、物事の理想を達成前に夢見て、達成してしまえば何てこともないと思ってしまう自分がいる。この本を読むと、そんな自分を認めなくてはならない。溝口が最終的に美と金閣と破滅をつなぎ合わせて憧れを焼いてしまったように、社会と接続した現実を認識せず、現象の中にイデアを見出すことの終着点は、自分と理想とをスクラップしてしまうような大きな終焉を望むことである。いくら叩いても壊れないガラスの箱に入れた理想を眺めていても、現実に生きなければいつまで経っても達成感や満足感は得られない。溝口は、三島の『金閣寺』は、そのことを教えてくれた。
 文化祭が終わり、「何も達成感がないです。」と相談した私に先生が言った「あなたはどの環境にいってもきっと満足できないわよ。」という言葉を、今ならまた違う、新たな気持ちで聞けると思う。

▼参考
morgen
「読書感想文なんて楽しくない。この動画と出会うまでは、ぼくもそう思っていた。」


東京都立大学インダストリアルアート学科専門科目 
エディティング演習Ⅱ 授業のようす

学科HP

この記事が参加している募集

読書感想文

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?