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あおいのきせきをかきあげて⇒九州。

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遠い太鼓がふたたび鳴った。あおいのきせきを仕上げてすぐに、九州へ向かえと遠い太鼓がまた鳴った。2002年11月。僕はJASの飛行機に乗ることになった。
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そして、初めての九州。

「あおいのきせき」を書き上げ、とりあえずなんとか帰還できたことを祝って、 というより、 …

別府へ。鉄道で阿蘇。

朝。別府湾をのぞむホテルを後に、どうやって別府の街まで向かったのか、とんと覚えていません…

火の国へ。

阿蘇駅で列車を後にして車を借りた。或いは観光案内所で今日の宿をおさえてから車を借りたのか…

高千穂、それから延岡→宮崎へ。しかし、失われてしまったのは20年。それで助かったの…

驚く事に、 或いは驚くほどのこともないのかもしれませんが、 この辺りの記憶がどうも判然とし…

気がつけば霧島。

記憶は突然くねくねと山道をドライブしている場面へと跳ぶ。 前夜、宮崎駅に降り立った僕は、…

戦争。

嫌われたようで、最後まで桜島はその姿を見せてくれませんでした。 鹿児島市内に入ったときに…

熊本で、漱石先生と

熊本駅で素敵なつばめ号とさよならをして向かったのが漱石先生のお宅でした。路面電車を降りたところがお堀端だったのを覚えています。 故郷、横浜にも、随分と昔になりますが、チンチン電車は走っていました。僕も、乗ったことがあるそうです。けれども、その記憶は残念ながらありません。実家の庭にあった飛石が、廃線になり不要になった横浜市電の敷石を再利用したものでした。 僕は、熊本で、そういった郷愁を感じていたでしょうか。 「夏目漱石」は日本語で小説を書こうとすれば、避けては通れない関所

未来を語る。未来を作る。島原・雲仙。

1991年の4月、元号が平成に代わって3年目の春、僕は社会人となりました。とても胡乱げなまま馴…

「水の中の八月」と、ふしぎなふしぎな1995年、1996年 — 九州をまわる・番外編 —

1995年、この「大変な年」、僕は代々木上原に居を構えておりました。 朝、仕事場に向かう道す…

長崎は、今日は。そして、「人知を超える何か」とは「あおいのきせき」の知見が世界に…

雲仙温泉を、朝、たちました。 歴史のある宿を後にして、再びのドライブです。車は、長崎の市…

長崎で、もう、帰ろうと思った。

どうしてだろう。 もう、東京に帰ろう。あのキャット・ストリートの狭い部屋に戻ろう、と思っ…

天岩戸

九州をまわる編【終章】高千穂で まず、向かったのは、高千穂のあの場所でした。 子供の頃、…