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相手を『思う』という思考のウラオモテ

仕事をする上で、職業柄「相手のことを思って」とか「クライアントの気持ちになって」という様な言葉を用いて、相手の事を思い寄り添おうとする。

対相手の仕事である以上、この考え方に大方賛成である。

一方で、この『思う』ことが、自身を苦しめている場面を少なからず目にすることがある。


それはどの様な時か。


自己犠牲が度を超えた時


である。オンタイムについては、存分に『思う』ことが当然。むしろそのマインドがないと仕事は務まらない。
クライアントにとって信頼できる人間にだってなれないし演じれない。

でも、オフタイムに至っても『思う』ことが先行し、自身のプラベートを削ってまで『思う』ことが重要なのだろうか。

この点について、疑問を感じずには居られない。

思う』という素晴らしい行動。ただ、綺麗で素晴らしい言葉であるが故に、その言葉を履き違えると自身を苦しめてしまうことにつながる。

我慢』し『自己犠牲』を率先する中で『思う』ことができるのであれば、その行動プロセスを見直した方がいいと感じる。

なぜか。

いつか、疲弊した精神が『思う』ことを全力で遂行できないからである。

相手を『思う』あまり、自身が疲弊してしまったら元も子もない。

つまり。『我慢』なく、『犠牲』なく『思う』ことができてこそ、無理の無い自然な『思う』という形だと言える。

その様な『思う』という思考(捉え方)が、継続的な行動を支える根幹にあるとも感じる。

その行動プロセスをこの先もずっと継続できるか?


関わる事に迷いが生じたらこの問い掛けを持って我に返る様にしている。

その問いに迷う事なく Yes と言える様な気の持ち方(心構え)。




賛否あるが僕の考える『思う』はそうでありたい。


Tsubasa 8.nov.2022

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