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「長靴をはいた猫」が語る投資話(※文学ってなんだ 4)

「長靴をはいた猫」――それは相続の場面から始まる物語である。

長男は風車小屋、次男はロバ、末っ子は猫一匹を、老いた父親から相続する。

もっともツマラナイ物を継承したように見えた末っ子だったが、人の言葉を話す猫の素晴らしい頓知のおかげで、最後は一国一城の主になるという、なんともまあ、夢あふれる童話の傑作である。

さて、この世の中には種々の投資話が存在するが、最高の投資とは、そんな末っ子を探し当てることである。

しかし、たいていの、というか、ほとんどすべての人間は、そんな末っ子に邂逅することのなきままに一生を終える。

なぜなら、この世の中におけるたいていの、というか、ほとんどすべての「仕事」なるものが、「長男と次男相手の相続対策」を目的としているからである。

「人間失格」と自嘲しながら死んでいった男が、いみじくも言った事に、

『この世の中に、戦争だの平和だの貿易だの組合だの政治だのがあるのは、なんのためだか、このごろ私にもわかってきました。あなたはご存じないでしょう。だから、いつまでも不幸なのですわ。それはね、教えてあげますわ、女がよい子を生むためです。(『斜陽』より)』

相続とは継承。継承とは命の連続。――それがこの世の実際なのだから、「投資」と名の付いた代物さえ、実は「相続」こそ本質なのだ。

では、「長靴をはいた猫」は、どこにいるのだろうか…?

もう何千年も言われ続けている事だが、「幸福の青い鳥」と同様、「猫」もまた、自分の内側にいる。

「猫」は、内側にしか存在しない。

それを外側に探し出そうと血眼になると、ひっきょう、「女がよい子を生むため」の「相続」に虐げられるハメになる。

たいていの人間は、それを「虐げ」とは思わない。「虐げ」と感じてしまった一人が、例えばくだんの「人間失格」な男である。

もし、どうしても、「虐げ」と感じてならないのならば、自分の内側を見つめることだ。

しつこく、腰を据えて、何年かかっても、あきらめることなく、執拗に、見つめることだ。

たとえすべてを犠牲にしても、なお、見つめ続けることだ。

犠牲にできないのならば、「猫」のことはすっぱりあきらめ、きれいさっぱり忘れ去り、「よい子」を「継承」することだ。

人生は複雑怪奇で、物語でも童話でもない。「相続」こそ正解で、「猫」が間違いだったという結末にならないと、誰が言い切れよう。

ただ、一つだけ、はっきりと断言できることがある。

真の文学とは「猫」を信じ、本物の小説とは「猫」を尋ね求め続ける芸術である、と。

怜悧なロジックも、完璧な算盤勘定も、冷酷無比な損切りも、啓示的なひらめきに基づいた英断も、決して、この複雑怪奇な人生を割り切れるものではない。――それゆえに文学は存在し、小説を書き続ける「人間失格」は存在し続け、その遺伝子は「継承」され続けるのだ。

ここからは分かる人にだけ向けて言っているのだが、割り切れないものの正体など、誰にも分からない。分かるのは、それを優先すれば一寸先は闇に包まれるだろうという予感である。それは漠としているが、確かな予感である。

その漠とした予感を「不安」と感じて、睡眠薬を飲んでしまうのか――そんなセンチメントよりも、自由を選ぶのか。自由よりも孤独を選ぶのか――。

そう、「猫」とは、孤独な末っ子のモノである。だから、最高の投資先とは、「孤独」なのである。


さらば、「相続」の文学たち。
待っていろ、「猫」の小説よ。

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