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愚かな金持ちたち ②


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神の人がエリのもとに来て告げた。「主はこう言われる。あなたの先祖がエジプトでファラオの家に服従していたとき、わたしは自らをあなたの先祖に明らかに示し、わたしのためにイスラエルの全部族の中からあなたの先祖を選んで祭司とし、わたしの祭壇に上って香をたかせ、エフォドを着せてわたしの前に立たせた。また、わたしはあなたの先祖の家に、イスラエルの子らが燃やして主にささげる物をすべて与えた。あなたはなぜ、わたしが命じたいけにえと献げ物をわたしの住む所でないがしろにするのか。なぜ、自分の息子をわたしよりも大事にして、わたしの民イスラエルが供えるすべての献げ物の中から最上のものを取って、自分たちの私腹を肥やすのか。 それゆえ、イスラエルの神、主は言われる。わたしは確かに、あなたの家とあなたの先祖の家はとこしえにわたしの前に歩む、と約束した。主は言われる。だが、今は決してそうはさせない。わたしを重んずる者をわたしは重んじ、わたしを侮る者をわたしは軽んずる。 あなたの家に長命の者がいなくなるように、わたしがあなたの腕とあなたの先祖の家の腕を切り落とす日が来る。あなたは、わたしの住む所がイスラエルに与える幸いをすべて敵視するようになる。あなたの家には永久に長命の者はいなくなる。…」
――


上のように、かつて堕落と腐敗を極めた祭司エリに告げられた神の言葉は、今日ただいまにおいてもなお、生きている

またそして、かつて年端もいかぬ少年であった頃のサムエルへむかって、「そのころ、主の言葉が臨むことは少なく、幻が示されることもまれであった」にもかかわらず、主の声が語りかけたように、

今日ただいまにおいても、サムエルの時代よりもずっとずっと「主の言葉が臨むことは少なく、幻が示されることもまれ」なこの現代においても、たとえばモーセよりもまだはるかにはるかに年も若く、サムエルよりもはるかにはるかに矮小な異邦人でしかないところのこの私へむかっても、

イエス・キリストはじゅんじゅんと語りかけるのである。

なぜとならば、

「人の中には霊があり、悟りを与えるのは全能者の息吹であり、年月を重ねることではない」ということを、この私はみずからの身をもって知っているからである。

がしかし、同じ私よりもはるかにはるかに年を重ね、成功を重ね、研究を重ね、礼拝に賛美に奉仕を重ねた「お前」においては、まったく知るよしもない。

その明々白々たる証拠こそ、お前の信奉している宗派教義神学、所属している国家共同体、そして、信じている「神」と歩んでいるというその人生の体たらくなのである、

すなわち、諸国と諸民族に対する飽くことなき戦争犯罪、その殺戮と収奪と暴虐を正当化してみせる信仰ごっこ、信仰ごっこが拠り所にしている金と力……けがらわしい!


文句があるならば、さっきからくり返しているように、見せてみるがいい。

がしかし、文句があろうとなかろうと、お前たちの末路とはホフニとピネハスのようになり、あるいはイゼベルのようになり、あるいはアハブに属する者のようになる。

なぜとならば、お前たちはこの私のようには、けっして書いて来なかった。

すなわち、

この世の中にユダヤ教だのキリスト教だのいう宗教が生み出されるはるか以前から「神は人に働きかけていた」――それが、「アブラハムが生まれる前からわたしはある」という言葉の意味であると、

また、

この地上に人間が、あるいは森羅万象が誕生したはるか以前から「神は存在していた」――それが、「はじめに言があった」という意味であると、

また、

この人間界からユダヤ教だキリスト教だのいう宗教のいっさいが消滅し、地の面から人という人のいっさいが絶滅し、宇宙そのものまでもが消滅したとしてもなお「神は永遠に存在する」――それが、「わたしはアルファでありオメガである」という言葉の意味であると、

それゆえに、

そのような「永遠に生きる神」でなかったならば、「人の鼻に命の息吹をふき入れる」こともできなければ、人の鼻に息吹を入れるようにして「お前の罪は赦された」と語りかけることもできはしない、

それゆえにそれゆえに、

「神」とは、「わたしはある」という全能者とは、あるいは「わたしは主である」というキリストとは、「自ら憐れもうと思う者を憐れみ、慈しもうと思う者を慈しむ神」である――

そうであるにもかかわらず、お前たちはたしかにこう言った、

かつて、「モーセの慣習に従って割礼を受けなければ、あなたがたは救われない」と触れ回っていた、ユダヤから下って来たある人々のように、

シオニズムだ、イスラエルだ、ユダヤ教だ、キリスト教だによらずしては「あなたたちは救われない」、だなどと――。

だから、

わたしの神イエス・キリストに言えと言われたまま、ここにはっきりと言っておく、

お前たちは、お前たち自身の言葉によって、裁かれる、

お前たちは、お前たち自身の庭に打ち建てた木の柱の上に、吊るされる、

お前たちのシオニズムだ、イスラエルだ、ユダヤ教だ、キリスト教だのいうものによっては、たっとひとつの命も贖いえなければ、救うこともできはしない、

なぜとならば、お前たちのシオニズムだ、イスラエルだ、ユダヤ教だ、キリスト教だのいうものとは、たかが「人」がその倉に積み込んだ、「自分のための富」であるばかりか、人の血で汚した大地の上に築き上げた繁栄であるからであり、

そんなうたかたの財産や、血塗られた栄華によっては、たったひとつの命をすらどうすることもできないように、だれの罪をも絶対に赦すこと能わない、

それにもかかわらず、お前たちはお前たちのシオニズムだ、イスラエルだ、ユダヤ教だ、キリスト教だによらずしては、「あなたたちは救われない」と言い、言いふらし、ふるまったのだから…!

がしかし――

矮小な、あまりに矮小なこの命をかけて、言えと言われたまま言っておくが、

「人の鼻に命の息吹をふき入れる」のは神だけである、

人の鼻に息吹を入れるようにして「お前の罪は赦された」と語りかけることができるのも、神ただひとりだけである、

そのようにして、泥人形にすぎなかった、あるいは病や苦しみのために死んだようになっていた人間を「生かす」ことができるのが、イエス・キリストなのである、

だから、イエスはキリストであり、キリストはイエスなのである――

こんな簡単な、あまりに簡単なひとつ事も分からないで、なにがアーメンで、なにがシャロームで、なにがイエス様であろうか、

こんな明瞭な、あまりに明瞭なひとつ事も分からないで、あるいは分かっているようなふりをして、あるいは分かっていながらもなおにして、やれシオニズムだ、イスラエルだ、ユダヤ教だ、キリスト教だと今日もまた、カルメル山頂で躍り狂っているような「お前」が、蛇でなくて、蝮の子でなくて、偽預言者でなくて、偽りのユダヤ人でなくて、今夜命を取り上げられる愚かな金持ちでなくて、いったいなんであろうか…!


もしも、

もしもこの私がただただ「聖書」からの引用をくり返し、そのようにして机上の空論を、あるいは妄想空想ファンタジーの類をだべっているにすぎないと思うのならば、

それでは、こうもはっきりと言っておく、

イエス・キリストも、キリスト・イエスの父なる神も、キリストを死者の中から復活させたその”霊”も、聖書なんぞをとおしてのみ語りかけるような、そんな舌先三寸の学者馬鹿みたいな神なんかではけっしてないと。

それは、

この地球なんぞいう惑星それ自体ができ上がるはるか以前から「神は生きていた」ように、

聖書なんぞが書かれ、紡がれ、まとめられ、編纂され、刊行され、出版され――そして、お前という愚か者どもが余計な解説や屁理屈やをつけ加えたりするよりも、ずっとずっと以前から、「神はみずから人に働きかけていた」からである。

この言葉についても、

さっきから延々とくり返しているように、「自分の身をもって」理解できない人間は、一生涯、聖書なんか分からない。

聖書なんか分からなくてもいいのだが、「みずから人に働きかける神」がまるで分からない。

みずから人に働きかける神がまるで分からない者とは、「神の前に豊かでない」、よって、「今夜、お前の命を取り上げられる」――。


それゆえに、

聖書なんぞ分かんなくたっていい――原語のものであれ、翻訳のものであれ、そんなものはひっきょう、文字の羅列たるにすぎぬのだから――

と、イエス・キリストから言えと言われたまま、はっきりと言っておく。

そしてこれは、私の(あるいはイエス・キリストの)言わんとすることについて、少しでも分かろうとする者のために言い添えておくものだが、

そんな文字の羅列をば、たとえば、まだ喃語しかしゃべれないような赤ん坊にむかって読み聞かせてみたところが、その者はいったいなにを解し得よう。

さりながら、たとえモーセ五書だの詩編だのパウロの手紙だのに感動することのできずとも、赤ん坊は、その親の呼びかける声に反応することはできるのである。

すなわち、

「聖書の朗読は理解できずとも、親の語りかける声を聞き分けることはできる」――

これこそが、冒頭に紹介した「愚かな金持ち」のたとえ話を、もとい、聖書全体を読み解く鍵なのである。

そしてなによりも、

それこそが、この私のように「神の前に豊かな者」の上にあまねく見られる、特徴でもあるのである。

「主の言葉が臨むことは少なく、幻が示されることもまれであった」時代において、

「主はサムエルを呼ばれた」とは、そういう意味なのである。



つづく・・・





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