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ひこばえのように ①


――
今まで残してきた記録はいずれ誰かが抜いていくと思うんですけど、去年五月からシーズン最後の日まで、あの日々はひょっとしたら誰にもできないことかもしれないというような、ささやかな誇りを生んだ日々だったんですね。そのことが……どの記録よりも自分の中では、ほんの少しだけ誇りを持てたことかなと思います。
――


上は、私の尊敬するイチロー選手が、プロ野球選手として引退するにあたって残した言葉の抜粋である。

私は、鈴木一朗なる人物についても、日本のプロ野球についても、米国のメジャーリーグについても、あるいは野球やベースボールというスポーツそのものについても雄弁に語ったり、書いたりできる知識も経験も有していないので、ここではいっさい差し控えることとする。

ただ、上の言葉だけは、初めて耳にした時からとても印象に残っており、今でも私の心の中に「生きている」ような言葉であるがために、はっきりと記憶しているまでである。

――そのような言葉は、私の中に数多あるようで、なかなかどうして残念ながら、曲がりなりにも小説家を自称する人間のくせには、実に数少ないかもしれない。

さりながら、多かろうが少なかろうが、別段そんなことを誰と競っているはずもないので、数なんか、どうだっていい。さらに言ってしまえば、質についても、あんまり重要視していない。

というのも、『神殿なんかいらない』という文章にも書いたことであるが、もしも、いつの時代の、誰の言った言葉であったとしても、それが今なお自分の中で「生きている」ように感ぜられるのであれば、もっとも大切なこととは、同じ言葉を耳にした今を生きる自分が、それについて何を思い、どのような行動に打って出るのか、この一点に尽きるからだ。


それゆえに、

私はかつて「神のために神殿を造りたい」という願いを抱いたダビデ王に対して、「なぜわたしのためにレバノン杉の家を建てないのか、と言ったことがあろうか」と答えた神の、その回答に込めた思いに感じ入り、『神殿なんかいらない』という文章を綴った。

また同様に、「わたしのために住むべき家を建てるのはあなたではない。…主があなたのために家を建てる」というふうにも語った、その神の心情をば思いつづけることをやめることなく、その継続の結果として、たとえば『喜びの神殿』をしたためた。

つまりは、イエスが生まれるに先立って約千年、今から約三千年前の人間に与えた神の回答「主があなたのために家を建てる」について、私は、同じ言葉が三千年後の「今」を生きようとする私にとっての、まさにまさしく知恵や力や救いとなったことを自分自身の身をもって体験し、また、その経験を文章にして書き表すことによって、周囲に向かって証ししてみせたのである。

であるからして、もしも、わたしの神イエス・キリストと父なる神の御前においてもはっきりと確言できることがあるとしたならば、

そういう行為こそが、まさにまさしく、ここ二年あまりの間、私がずっとし続けてきた事にほかならず、

冒頭のイチロー選手の言葉を借りるとすれば、「ささやかな誇りを生んだ日々」なのであった。


それゆえに、

私はここにおいて、わたしの神イエス・キリストと父なる神とに向かって、さらにはっきりと、かく言うものである。

すなわち、聖書の中で、「だれもわたしのこの誇りを無意味なものにしてはならない」と言ったパウロに倣うわけでもないが、

「だれによっても、私のこのささやかな誇りは、無意味なものとされることがない。なぜとならば、去年の一月頃から今日まで、私が閲して来た時間とは、たとえ古今東西のすべての人間から笑われるような日々にすぎなかったとしても、まさにまさしくそんな「時」をこそ、私はかの日にあってあなたの御前で誇ることができるのだから」、と…。


私は何を言いたいのだろうか。

さながら、身の程知らずの愚か者にでもなったかのように、誇っているだけである。

すなわち、この私はかつての使徒だろうが、王だろうが、士師だろうが、先見者だろうが、預言者だろうが、なんだろうが、聖書にその名を記され、かつ神の命の書というやつにも名を記されているような誰と比べても、けっして見劣らない「立派な働きをした」というふうに、誇ってみせているばかりなのである。

もう一度言うが、私はパウロだろうが、エゼキエルだろうが、エリヤだろうが、ダビデだろうが、モーセだろうが、アブラハムだろうが、ヨブだろうが、エノクだろうが、アダムだろうが、なんだろうが、彼らのような偉大にして有名な人間一人ひとりを横にしても、けっして引けを取らない働きをしたのだと確言、切言、断言するものである――ほかでもない、イエス・キリストと、キリスト・イエスの父なる神の御前においてこそ。

だから、こんなふうにだれかが自分について誇っているような物言いなど、他人にとっては不快な騒音以外のナニモノでもありはしない――が、もうなんどもなんども言って来たように、私はこれまでもだれに好かれたいと望んで文章を書いて来たわけでもないために、「人」なる読者の感情になどいっさいおもねらないし、配慮も配らない。

私はこれまでもずっと、ほかの何者でもない「神」に向かってこそ物を言って来たのであり、この文章に限ってはことさらに、「神」以外の誰にも語りかけてなどいはしないから。


それゆえに、

平生よりもよりいっそう、はっきりとはっきりとはっきりと断言するものであるが、パウロだろうが、ダビデだろうが、モーセだろうが、彼らはいずれも古今東西において大変に有名な人物であるかもしれないが、だからと言って、そんな彼らの内のただの一人として「偉大」な者もいなければ、「特別」な輩もいはしない。

たとえキリストの使徒の”柱”とまで目されていたヨハネにしてもペトロにしてもヤコブにしても、たかだか聖書の中にその名が出て来たぐらいの話で、その者のしょせん「人」以外のなんでありえた事実があろう。

いかに素晴らしい手紙や詩歌や箴言やを書き残した賢者であろうとも、人類史上もっとも偉大で裕福な王にして、初めて神殿の建設に成功した為政者であろうとも、敵国の君主の前であらゆるしるしと奇跡を行ったり、大群衆の目睫で海を二つに割ってみせたりするようなあらゆる力ある業とあらゆる恐るべき出来事を示してみせたことのある指導者であろうとも、聖書の中の登場人物など、どこまでいっても向こう三軒両隣にちらちらしているような「たかが人」であって、それ以上でもなければ、それ以外でもない。

これは大変に重要な事なので、もう一度言っておくが、どこのどなた様において何と仰せられていられましょうとも、聖書の中の輩どもなど、どいつもこいつもひっきょうただの「人」でしかなく、生まれてから死ぬまでずっと「人」の身分を超える者たりえず、ゆえにこの地上で飯を食らって糞を作り続け、ついには塵へと返っていったばかりである。

まあ、時たまエノクやエリヤのように、死を見ずに天へ上げられていったという例外がなくもないのだが…。それでもなお、「およそ女から生まれた者のうち、洗礼者ヨハネより偉大な者は現れなかった。しかし、天の国で最も小さな者でも、彼よりは偉大である」という言葉とは、その言葉のとおりに受け入れるに値する真実である。


それゆえに、私は言っているのだ。

この私もまた、そんな「たかが人」たちとまったく同じ「たかが人」であるがゆえにこそ、「私はあの大使徒たちと比べても、少しも引けは取らないと思う」という言葉になぞらえて、たかがパウロやたかがモーセなどと比べたって、「まったく引けを取らないと確信している」というふうに。

すなわち、「たとえ話し振りは素人でも、知識はそうではない」という言葉のとおりで、たとえ文章はヘタでも、「神の心情(御心)を思う」というこの一点においてだけは、いかなる使徒や預言者を前にしても、私は引けを取っているつもりはいっさいない。

そんなお前の言葉の根拠はなにかと問われたならば、以下のとおりである。

たとえば先述の、「主があなたのために家を建てる」という言葉の中に込められた神の思いをば、この私は当時の先見者ナタンやイスラエルの王たるダビデなんかよりも、ずっとずっと深く強く感じ入り、ずっとずっと深く長く考えつづけたその結果、金や銀やレバノン杉やによる可視の神殿なんかではなく、自分の心の中に不可視の、永遠の、イエス・キリストの神殿をこそ建設(再建)することに成功した

そのような不可視の神殿再建(心の復興)こそが、かつてのエズラやネヘミヤに可視の神殿再建を命じた神の真意であり、今もなお、自分の人生をとおして心の中に不可視の神殿を建てること、すなわち「主があなたのために家を建てる」ということ、すなわち死者の中から父なる神の憐れみによって復活させられたイエス・キリストの永遠に生きる霊が自分の心の中に住むということ、すなわちそのようにして「命の源たる心」へ神の言葉に力を得ながら「今」を生き延びること――それこそが、エズラやネヘミヤばかりでなく、ソロモンにもダビデにも、あるいはヨシュアやモーセにも、ヤコブやアブラハムにも、さらにはノアにもエノクにもアダムにいたるまで、ずっとずっと告げられ続けて来た「神の約束」であったのだ…

…たとえばパウロであれペトロであれ、これぐらいの文章など書こうと思えばいくらでも書けたであろう。あるいは肉においても生粋のユダヤ人であった彼らならば、もっともっとユダヤ人らしい言葉遣いをもって、「神殿再建」と「イエス・キリスト」とを結び付けて語り得たことであろう。

それでもなお、パウロにおいてもペトロにおいても、彼らのどの手紙を読んでみても、そんな記述は見当たらない。その点においてだけでも、かつてのエズラやネヘミヤによる神殿再建について、それはこの時代のイエス・キリストによる不可視の神殿再建を示唆していたのであり、それがハガイ書にもゼカリヤ書にもマラキ書にも込められた神の思いであり、さらには原初のアダムから告げられていた約束の成就であり――というふうに、はなはだ簡潔に述べ得たのはこの私の方である。

だから、同じ人である私の方が、同じ人でしかなかったパウロなんかよりもより明確に、明瞭に、さらには天真爛漫に「神殿再建」の物語を語りえたというのである。

であるからして、「神の約束は、ことごとくこの方(イエス・キリスト)において「然り」となった」というパウロの言葉が立派なように、私の『喜びの神殿』という文章もまた立派なものなのである。

がしかし、

はっきりと言っておくが、だからといって、私は私がパウロと同等だなどいう主張をしたいわけではなく――だからより多くの信者が欲しい、よりたくさんの献金が欲しいといった、どっかのだれかさん達のような「欲しがり」な物言いをしているのでもなく――ただただ、自分の文章とは、パウロの理屈っぽくて長たらしい話と比較してみても、「少しも引けを取ってない」と主張しているまでなのである。


同様に、

同じ私は「偉大なる」モーセにだって、けっして引けを取ってはいない。

モーセはそのモーセ五書の締めくくりにも書かなかったが、私は私の人生において、私の身をもって神の憐れみの山に登り、その山頂においてイエス・キリストに出会い、私にしか見せないようなイエスの微笑を見て、微笑み返した。そのようにして、イエスの父なる神とも出会い、同じように私にしか見せないような御顔を向けられて、喜び、笑い、新しい歌をもってそれに返した。

それが、ほかならぬ私の人生における「荒野の旅」の顛末であり、画竜点睛という言葉のとおりに、私は『わたしは主である』という文章をもって、モーセよりも美しく、感動的に「モーセ五書」を締めくくったのである。


同様に、

同じ私は『ソドムとゴモラ』を書いたことによって、アブラハムのイサクを捧げた信仰と行いよりも神に喜ばれるような、粉々に破壊された我が心の破片をばイエス・キリストへ向かって捧げたことで、父なる神から喜ばれた。

だから私の生き様とは、アブラハムのそれなんかにも、けっしてけっして引けを取ってはいないのである。

同様に、

同じ私は『エロイ、エロイ、レマサバクタ』や、『父よ我が霊を御手に…』や、『雨あがりて』などを書くことによって、イエスの今わの際の叫び声こそが「イエスのキリストであり、キリストがイエスである」という奥義の中を奥義を説き明かすべく最大の鍵であることを、力強く物語りながら示してみせた。

だから私は、自分の人生と自分の身とをもって、イエス・キリストと邂逅したというこのひとつ事については、この世に生きた事実を持つあらゆる有名無名の人間と比べたとしても、「引けを取っていない…!」とくり返しているのである。


同様に……もうやめておこう。

私が言いたいことはただ一つ、

たかだかこの世の片隅の、たかだか無名の人間の、たかだか一瞬のごとき人生の、たかだか塵芥のごとき出来事を通してでも、唯一まことの生ける神であり、全被造物の救い主であるところのイエス・キリストに邂逅し、そのイエス・キリストの父なる神とも出会い、交わりつづけた日々――それが、私の「ささやかな誇り」そのものなのである。

そんな「誇り」をいったいだれが、なにが、どんな力が私から奪い去ることができようか…!

「あった」こととは、もはやどこまでも「あった」ことにほかならずして、「あった」を「なかった」にすることなど、いかなる者にもけっしてできはしない。

もしもできる者がいるとしたらば、それは神だけである。虫けらにも等しき私がこの地上に生まれて落ちて、今日まで生きた事実を無かったことにできる存在がいるとしたらば、それはわたしの神イエス・キリストただひとりなのである…。



つづく・・・



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