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復讐の預言、励ましの預言 ②


――
エフェソにある教会の天使にこう書き送れ。
『右の手に七つの星を持つ方、七つの金の燭台の間を歩く方が、次のように言われる。 「わたしは、あなたの行いと労苦と忍耐を知っており、また、あなたが悪者どもに我慢できず、自ら使徒と称して実はそうでない者どもを調べ、彼らのうそを見抜いたことも知っている。 あなたはよく忍耐して、わたしの名のために我慢し、疲れ果てることがなかった。 しかし、あなたに言うべきことがある。あなたは初めのころの愛から離れてしまった。 だから、どこから落ちたかを思い出し、悔い改めて初めのころの行いに立ち戻れ。もし悔い改めなければ、わたしはあなたのところへ行って、あなたの燭台をその場所から取りのけてしまおう。 だが、あなたには取り柄もある。ニコライ派の者たちの行いを憎んでいることだ。わたしもそれを憎んでいる。 耳ある者は、“霊”が諸教会に告げることを聞くがよい。勝利を得る者には、神の楽園にある命の木の実を食べさせよう。」
――


だから、

聖書なんぞいう書物の書かれ、残され、読み継がれてきた理由とは、「截然とふるい分けられるため」だと、冒頭はっきりと述べたのである。

すなわち、

その最終章『ヨハネの黙示録』にあっては、わたしたちのような「幸いなる者」をいつまでも捨て置かず、「わたしが行くときまで、今持っているものを固く守れ」という言葉のとおり、与えられた信仰と、信仰による行いとを確からしめるための励ましの預言がなされたが、

お前たちのような「災いなる者」に対しては、神はけっして沈黙せず、その罪と悪行についていつまでも看過することなく、「天よ、この都のゆえに喜べ。聖なる者たち、使徒たち、預言者たちよ、喜べ。神は、あなたがたのために、この都(バビロン)を裁かれたからである」という言葉のとおり、神は必ず報いるという約束が、ふたたびもって力強く語り聞かされ、全天と全地の前において、復讐の預言がなされたのである。

それゆえに、ただそれゆえに、

イエス・キリストから言えと言われたまま、ここにはっきりと言っておく、

もう終わったことなど、なにもない

まだなにひとつとして、終わってなどいない、と。


どういう意味であろうか――?

どういう意味も、なにもない。

お前たちがお前たちの巷の教会で、その身にバプテスマを受けたからといって、お前たちの過去に犯した罪が赦されたということは、けっしてない。

お前たちがお前たちの宗派教義神学によって、いかなる奉仕礼拝賛美の諸活動を継続してみせようとも、お前たちがこれからも犯し続ける罪が赦されるということは、けっしてない。

お前たちがこの世で勝利を手にし、わたしたちのような白い衣を着せられた、キリストの聖なる者たちの命を奪ってみせたとしても、それで「終わったこと」になど、けっしてけっしてなりはしない。

すべては、ただ、凝然と見られている。

お前たちユダヤ教キリスト教のバビロンどもが、お前たちの犯した大小あらゆる詐欺や、窃盗や、誘拐や、人殺しやの罪々について、どんなにそれらすべてを「終わったこと」にしたくとも、いっさいは、数えられ、覚えられている。

しかりしこうして、

すべてについて、神は裁き、報い、復讐するのである。


それゆえに、

ただそれゆえに、

すべてについて、神は裁き、報い、復讐する――

もしもこの言葉について、毛の先ほどでも「恐れ」を抱く者のいるとしたならば、その者とはただの一人の例外もなく、天使の吹く災いのラッパを聞いて恐れおののく、災いなる者である。すなわち、偽預言者であり、偽りのユダヤ人たちであり、バビロンの悪霊である。

すべてについて、神は裁き、報い、復讐する――

この神の言葉を耳にして、毛の先ほどの恐れも抱かないかわりに、「水が頭を越え、もう最期だと」と倒れたその時にあってこそ、復活の励ましと、勇気と、喜びと、希望と、信仰とを抱きなおし、強められ、確からしめられる者とは、天使の吹く福音のラッパを聞く、幸いなる者である。すなわち、イエス・キリストの者であり、キリスト・イエスの父なる神の子らである。


このように、

『ヨハネの黙示録』にせよ、その他の預言書にせよ、なんにせよ、「神の言葉」とは、それを聞いた者が、聞いたことによってその結果、どちらの方角へふるい分けられていったとしても、それはその者の「心しだい」なのである。

どんなに素晴らしい知恵の言葉を自らに向かって語り聞かせ、どんなに偉大にして高名な傑物たちの残した格言金言の類をもって武装し、どんなに長い長い日月を積み重ね、”イエス様”と共に歩んで来たような人生そのものを自他に対して見せつけてみようとも、

人は、自分自身の「心」をば、欺きとおすことはできないのである。

人は、ただ己の心それをさえ、説き伏せることもできはしない。

ならばどうして、神の心を説き伏せることができるだろうか。

「神のことを知る者は、神の霊だけである」ように、

神の心を変えるのも、人の心を変えることのできるのも、神の霊だけである

だからこそ、その者の「心しだい」とはまた、「神の計らいしだい」なのである。


もう一度、もう一度信仰によって、はっきりとくり返しておく、

すべてについて、神は裁き、報い、復讐する――

この人生において、すでに終わったことなど、なにもない。

「わたしはアルファであり、オメガである」とは、そういう意味である。


すべてについて、神は裁き、報い、復讐する――

人の罪を赦す力と、権限と、権威とは、巷のユダヤ教キリスト教の教会にはなく、ありうる限りの宗教の宗派教義神学にもなく、長日月におよぶいかなる集会結社共同体における諸活動にもありはしない。

教会とは、人の心の中にあるもののことであり、

不可視の教会へこそ、「七つの星と、七つの金の燭台」の幻に示されたがごとく、”霊”はじゅんじゅんと語りかけるのである。

それゆえに、

不可視の教会を心に持つ者は、そこに復活したイエス・キリストの霊の宿る者である。

キリストを復活させた父なる神の霊によって生きる者は、完全に”自由”である。

が、不可視の教会を心に持たない者は、可視の教会に心身を支配される。支配しているのは人に恐れを抱かせて、奴隷とする天上の悪の霊である。


すべてについて、神は裁き、報い、復讐する――

さあ、わたしの心と、あなたの心とは、どちらへ向かうのか――

ほかならぬ、自分の心を訪(おとな)い、訊ね、聞いてみるがいい。

”霊”はすでに、心に向かって答えているように、

心はすでに、”霊”に向かって、そして自分自身に向かって、答えているのである。




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