見出し画像

アスファルトの上のカブトムシ(※文学ってなんだ 3)

正宗白鳥はかつて、「僕は週刊誌を馬鹿にしない。週刊誌も面白いし、聖書も面白い」と言っていたという。

評論家としては一流だったが、小説家としては三流だった彼の原因が、端的に表れている言葉である。

「週刊誌も面白いし、聖書も面白い。だけど一度も、大真面目に読んだこともない」――と笑っていそうな作家が、谷崎潤一郎である。それゆえに、潤一郎は評論家としては三流だったが、小説家としては一流であった。

現代における、白鳥っぽい人間といえば、大江健三郎であろう。彼の評論はそれなりに面白い。しかし小説は、と言わざるを得ない。

そして、大江の思想については、二十歳そこそこの頃に講演の中で聞いたことがある。一言で言って、「糞真面目で、正義感にあふれている」思想だった。

それで分かったのだったが、大江とは、正宗白鳥であり、武者小路実篤でもあるのだと。前者のように「博学で理屈っぽく」、後者のように「真面目で、正義感が強い」…

理屈っぽい武者小路実篤…

それがゆえに、その評論や発言は「ちょっと聞いてみよう」という気を起させるが、小説は「もう読みたくない」という気にさせるのだろう。

つい先だって、田舎道を歩いていたら、アスファルトの上を闊歩するカブトムシに出会った。これが、実篤であり、大江であると思った。

せっかくなので、家に帰って、子供の図鑑を借りて、カブトムシを調べてみた。これが、白鳥であり、大江であると思った。

小説も小説家も、そんなカブトムシであってはならず、その図鑑であってもならない。

まかり間違ってアスファルトの上に這い出て来てしまったカブトムシであってはならず、研究しつくされて図鑑の上に描かれ解説を加えられたカブトムシであってもならない。

そんな原則中の原則を知ってか知らずか、アスファルトの上にしゃしゃり出て来てしまうから、美しき村を作ってみたり、原発反対を訴えてみたり、あるいは都知事になってみたり、あるいは市谷でハラキリしてみせたりと――小説、ひいては文学ともまったく関係のない活動なんぞに勤しまなければならないハメに陥るのだ。

少なくとも、潤一郎なんぞは、里山の自然の中で気随気ままに樹上を飛び回り、白濁の樹液を日がな一日きこしめながら、ある時あっけなく死んでいってしまった――そんなカブトムシだった。

そして、「週刊誌も聖書もすべてがオレの小説のダシでしかない」と、誰に言うでもなく宣いながら、幽邃の秘境の深奥でただひとり、今まで誰も見たことがなく、聞いたこともないようなカブトムシのその艶を輝かせているのが、丸山健二である。


さらば、アスファルトのカブトムシたち。

待っていろ、神秘の艶。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?