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イエス・キリストの福音 ②


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そして、天使はわたしにこう言った。「これらの言葉は、信頼でき、また真実である。預言者たちの霊感の神、主が、その天使を送って、すぐにも起こるはずのことを、御自分の僕たちに示されたのである。見よ、わたしはすぐに来る。この書物の預言の言葉を守る者は、幸いである。」
…また、わたしにこう言った。「この書物の預言の言葉を、秘密にしておいてはいけない。時が迫っているからである。不正を行う者には、なお不正を行わせ、汚れた者は、なお汚れるままにしておけ。正しい者には、なお正しいことを行わせ、聖なる者は、なお聖なる者とならせよ。見よ、わたしはすぐに来る。わたしは、報いを携えて来て、それぞれの行いに応じて報いる。 わたしはアルファであり、オメガである。最初の者にして、最後の者。初めであり、終わりである。
――


このようにして、

いつもいつでも四面楚歌で、孤立無援で、悪戦苦闘を強いられるばかりのこの人の世にあって、私はいつもいつでも神から、イエスから、キリストから、父なる神から、”霊”から褒められ、励まされ、力づけられ、さらに強く、雄々しく、勇ましく前へ、前へと進み続けるように、身を、心を、霊を、人生それ自体を憐れまれ、慰められ、慈しまれるのである――まるでまるで「産めよ、増えよ」と祝福されるかのように。

であるからして、

私の言わんとするところの『ヨハネの黙示録』とは、あるいは、イエス・キリストの黙示とは、けっしてけっして難しいものでもなければ、人の言うほど空恐ろしいものでもない。

どんなに孤独で、どんなに乏しく、いかに惨めきわまりない境遇にうめく者であっても、この私のように自らの罪を言い表して、悔い改め、神に立ち帰り、神の憐れみを受けて罪を赦されて、罪を赦されて立ち上がり、咎を取り除かれて新しい使命を与えられ、父母未詳以前の本来の使命をも取り戻した者にとっては、”霊”が諸教会に告げるあらゆる黙示たるは、「福音」以外のなにものでもありはしないからである。

神はかならず助け、復讐する――

神は乏しき者をけっして捨て置かず、虐げられたる者のために復讐する――

これら初めの頃からの約束が、いままさに成就し、実現しようとしている、福音だからである。

だからこそ、

私は私がいつもいつも喉を嗄らし、声を嗄らして叫び上げている事柄が、神の目において正しいものであることを確信するのである。

福音、福音、福音――この佳美しく、希望と力に満ち満ちた音色こそ『ヨハネの黙示録』の醍醐味であり、聖書全体の書かれた本当の目的である、

たとえ金も力も地位も無く、終生そのひとつにすら恵まれず、あるいはすべてを失ってもなお、あらゆる人生に込められた神の本意であり、イエスの永遠の想いであるところの福音をこそ、私は聞き取り、聞き分け、しかりしこうして、自らの口で、筆で、表現しているからである。


ところが、

この私のように福音、福音、福音と、一生懸命に強調するそのかわりに、『ヨハネの黙示録』なんかを掲げ上げてはやれハルマゲドンだ、大患難時代だ、最終戦争だ、世界の終わりだなどいう「恐れの宗派教義神学」をこしらえて、

街々に蜘蛛の巣のように集会所をば乱造し、まことしやかに人々の耳に吹き込んでは欺いて、救われたかったならばオラが教会(銀行口座)へ金を入れろ、オラが権威の前にひざまずけ、オラが言う事に聞き従え、オラが、オラが…というように東奔西走する連中らが、

いかに「福音」ではなく「災い」を告げ知らされて、「救い」ではなく「滅び」の預言に恐れおののき、「憐れみ」ではなく「裁き」の結末に囚われているかが、分かるであろう。

それゆえに、

彼ら一人一人の言うこととは「ニコライ派の嘘」であり、すること為すことは「イゼベルという女のすること」であり、広めている宗派教義神学は「バラムの教え」だというのである。

彼ら一人一人の胸の中にあるものとは、「恐れ、恐れ、恐れ」――ただそれだけである。

彼ら一人一人の心とは、彼らが認めると認めないとに関わらず、すでに理性に先立って確信してしまった「裁きの運命」を前に、がくがくと膝を笑わせている。

だからこそ、日夜、目を血走らせてはオラが教会へ、オラが聖書の解釈へ、オラがいえす様ごっこへ、オラがイスラエル国家へ、オラがユダヤ民族へと狂いまわるのである――一人のでも多くの人々を、オラが滅びの末路へと、いっしょに引きずり込むために。

彼らの言う福音もどきと、私の言う、あるいは”霊”の告げる福音とは、まったく似て非なるものである。

その証拠に、彼らの言う教会とは、冒頭に私の述べた不可視の教会のことではなく、彼らの利潤と銀行口座と社会的地位を保するための宗教法人のことでしかない。

彼らの主張するアブラハムとは、ただの血肉遺伝民族的ユダヤ人のことであって、私の言う「その心に憐れみを知った人間」のことでもない。

彼らの言うユダヤ人とは、地上的な、あまりに地上的なそれに過ぎずして、私の言う、あるいはパウロの言う、「国籍が天にある人々」のことを指しているのでもない。

彼らはイエス様のお名前によってアーメンと祈るが、イエスの名前のなんであるか、自分の身を持って知らない――イエスの名前とは、聖書(文字)なんぞに書かれてあるものばかりでなく、私がいつもいつも言っているように、自分の人生をもって掴み取っていく、神と己との間にのみ使われることを許されたような、秘密の名前だからである。

私は、そのようなイエスの秘密の名前をば、血反吐を吐くようにして掴み取った――それが、『エロイ、エロイ、レマ、サバクタニ』とか、『父よ、我が霊を御手に…』とかいうような、私の「命をかけた祈り」であった。

そんなまるで「血にまみれた衣」のようなイエスの名前を知らないで、ただただ聖書の中に見出したインマヌエルだの、愛だの、アドナイなんちゃらだのと唱えてみたところで、どうして祈りを聞き入れられることがあろう。

そういう賛美礼拝奉仕のいっさいが、ふざけた、あまりにふざけたアーメンごっこであり、ハレルヤごっこであり、イエス様ごっこであり、カルメル山頂のバカ踊りだというのである。

彼らの神とは、すべてなべておしなべて、偶像である――偶像とは、実際には存在しないもののことである――だから、彼らが彼らの勝ち得た富と力と地位によって、あらゆる宗教的成功によって、なにをどう言って、為して、復唱して、継続してみせようとも、雨は降らない


「雨は降らない」とは、「罪を赦されない」ということである。

そこにどんなに伝統と歴史の堆積があろうとも、どんなに数多の民衆から信認を得てみせようとも、「罪を赦す権威」とは、神だけのものである

人の「失敗や過失を許す権限」も、人に「命の息を吹き込む力」も、ただただイエスにだけ、委ねられている。

だからこそ、イエス、イエス、イエスだけがキリストであり、キリストはイエス、イエス、イエスだけなのだ。

そんなイエスが、どうして二千年前に、この地上世界において殺されなければならなかったのか――

どうして神から見捨てられ、「エロイ、エロイ、、」と血反吐を吐き、「父よ、我が霊を御手に、、」と血涙を垂れ流し、それでもなお、「彼らに罪を負わせないで、、」と叫び上げたのか――

『雨あがりて』にも言い表したように、そのようなイエスとともに十字架に架けられて死んで葬られるという体験こそが、神に見捨てられるという人生経験であり、

それこそが私が身と心と霊をもって体験した、心の割礼であり、キリストの洗礼であり、霊のバプテスマであった。

それがどうして、巷の諸教会の施している、「ガキの水遊びにも如かないようなバプテスマ」なんぞと、同じものであってたまろうか――!


それゆえに、

私は「ニコライ派の教え」のすべてを憎んでいる。

これだけしつこく、しぶとく、飽くことも疲れはてることもなくそれを言い続けるのは、「神が憎んでいる」からである。

この世のすべてのニコライ派の者ども、すなわち、イエスやキリストや父なる神を語るようにして、福音ではなく災いを触れ散らかす者、イエスの名前も神の名も知らずにアーメンを唱える者、なんのしるしにも救いにも赦しにもなりはしないバプテスマをあたかもそうであるかのように見せかける者、そのような宗教活動によって人々を欺き、かどわかし、盗み取り、商売にいそしむ者――

これらの者一人一人とは、なんどでもなんどでも、わたしの神永遠に生きるイエス・キリストから言えと言われたままはっきりと言っておく、

お前たちの行いはことごとく見られており、ただの一つとして見過ごされることなく数えられており、そのようにして、神から憎まれている――!

だから信仰によって、ゆるぎなき確信によって、ここにはっきりと言っておく、

「イエスの証とは、預言の霊である」という言葉のとおりに、お前たちの耳にしているハルマゲドンだの、大患難時代だの、世界の終焉だのいう災いの預言と、滅びの結末とは、お前たち一人一人の上にこそもたらされる。

「もはや時がない」という言葉のとおり、お前たちが聞き及ぶ音色とは、第七の天使が吹くラッパの音それだけなのである。


なぜとならば――

お前たちは祈らなかった。

道行く道の端の地面にも、愛らしい”ふきのとう”が鼻づらを見せるようになると、人々は春の訪れを知るようになる、

そのように、年の初めのためしとて、終わりなき世のめでたさをば心に信じ、祝っていたはずの元旦にあって、大和の国には恐ろしい地道が起こり、狸寝入りを決めこんでいた深海まで騒ぎ立った、しかしお前たちは祈らなかった――

この私のように、イエス・キリストの秘密の名前によって、祈らなかった。

だからお前たちは、足元で同胞たちが苦しむのを尻目にして、異国の戦争のために「金」を送った。同じ「金」に心奪われて、蝋燭の面に美しい絵を描いていた人魚の娘を香具師(やし)に売り渡した――それがお前たちの祈りであり、信仰であり、行いであった。

だからお前たちは、「お前たちが行ったことに応じて、一人一人に報いられる」

瑞穂の国のためのもっとも特別な日にあって、大地はいちじるしく盛り上がり、千年に一度、あるいはそれ以上というほどの稀有な地異が突如として襲いかかったように、

お前たち一人一人が平和だ、無事だと言い、春が来た、夏の盛りが来たとのさばっているその矢先にあって、「主の日」に襲われる。


お前たちは「神にすら沈ませえない」と謳われた巨大客船に乗って、おごり高ぶっていた。だから、崩壊の予兆に気がつかず、沈没の運命が告げ知らされてもなお、金と地位と力により頼み、偽りの教会で賛美と奉仕と礼拝にいそしんでいた。

ふたつに裂かれた船の上では、もはやお前たちの誇りであった金も地位も力も、お前たちを救わない――お前たちの宗教にすがっても、それはお前たちの命を救わない――心も、魂も、霊も、なにひとつ、救わない。

月も星も隠れた夜半に、お前たちは船の上から放り出される。冷たい、はてしない、ものすごいような波のうねりかえる、黒暗暗たる水の中へ。

お前たちはそこで、神の名前を、救いの祈りを、神の憐れみを祈り求めるが、お前たちは知らない。イエスの名を、キリストの救いを、憐れみの心を船の上で知らなかったように、水の中でもお前たちは知らない。

それゆえに、

何も知らないお前たちは、沈んでゆく。底へ、底へ、深みへ、深みへ、はてしなく、終わりなく、ただ永遠に、沈んでゆく。


お前たちの暮らしていた都は滅び、富と名誉をもたらしていたバビロンは倒れる。

あれだけの力も、繁栄も、平和も、なにもかも、ひと時にして消えてゆく。

滅びながら、倒れながら、跡形も残らぬように焼かれながら、お前たち一人一人とは知ることとなる、

「イエスは主であり、神であった」

そして、「キリストの裁きはことごとく正しかった」、と。

その日は、もうすぐそこにあり、お前たちの目睫に差し迫っている――

が、お前たちはけっして知らず、知ろうともしない。だからこそお前たちはけっして赦されず、けっして救われず、けっして憐れまれることがないのである。


――私は知っている。

私は、神から与えられたふたりだけの秘密のような私の名前を知るように、イエスとのふたりだけの秘密のような、イエスの名前を知っている。

その名前は、いつもいつでも、神とわたしが再会する場所を示唆している。

それは、けっして、わたしだけにしか行けず、たどり着くこともできない場所であるようにと、”霊”によって、ただわたしだけにほのめかされたのである。

だから私は、知っている。

神が、イエスが、”霊”が、どうして、人の心に宿るのか。

なぜ、心なのか。

まるで荒野のごとく茫漠として、荒海のように混沌として、深淵のようにはてしない心の、

そんな心の、正確に、どこ、なのか。

私は知っている。

だからこそ、貧しい、あまりに貧しい心をした私は、おごり高ぶった、あまりにおごり高ぶった、そして、かたくなな、あまりにかたくなな心をしたお前たちよりも、「幸い」なのである。


二年前、

なにも知らず、なにも持たず、なにをか告げ知らされたという事実もなきままに、私は書き始めた。

生きるという行為をろくすっぽ知らず、生き抜く方法をまともに学んだこともなく、生き延びるための訓練を課されたというためしもない、そんな私が、その身をもって荒野を歩き、神の裁きの山に上り、神の憐れみの山に上り、とどまり、”霊”に満たされて、イエス・キリストの永遠の微笑を見つめた。

神の名と、自分の新しい名とを知り、しかりしこうして、イエスとふたりだけの秘密の名を告白されて、その名の示唆する場所を、自らの身をもって訪い、ふたたびもって、キリストと再会することを得た。

だから私は、自分自身を褒めている。

なぜとならば、神が、神自身が私を褒め、認め、愛し、愛し、愛しぬいていることを、身と、心と、霊と、人生をもって知るからである。


それでは、 

冒頭の、「自分に足りないもの」とは、なんであろうか――

”霊”に満たされて、ここにはっきりと言う、

足りないものなど、なにひとつとして、ありはしない。

わたしには、すべてが、与えられている。

金も力も地位もなく、

金も時間も健康も家族も友人も追い求めないそのかわりに、

わたしは人生を、命を、永遠の命を、罪の赦しを、福音を、新しい名前を、神の言葉を、”霊”を、イエスを、キリストを、神自身を、

与えられ、与えられ、与えられた。



それゆえに、

時の差し迫った今日の日において、わたしのなすべきことはなんであろうか――

「わたしは、あなたがたに別の重荷を負わせない。ただ、わたしが行くときまで、今持っているものを固く守れ。」

「わたしは、すぐに来る。あなたの栄冠をだれにも奪われないように、持っているものを固く守りなさい。」…



――
霊”と花嫁とが言う。「来てください。」これを聞く者も言うがよい、「来てください」と。渇いている者は来るがよい。命の水が欲しい者は、価なしに飲むがよい。
――


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