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AI以下、ロボット以下



――
蟻の一族は力はないが、夏の間にパンを備える。
岩狸の一族は強大ではないが、その住みかを岩壁に構えている。
いなごには王はないが、隊を組んで一斉に出動する。
やもりは手で捕まえられるが、王の宮殿に住んでいる。
――


すでにもうなんどもなんども、なんどもなんども書いて来たことであるが、

聖書とは、「信仰」をもって読まなければ、そこに息づいている「神の霊感」を知ることなど、けっしてない。

聖書が書かれた最大の目的は、そこに込められた「神の本当の思い」を、人が知るようになるためである。

「自分で食べて、自分で味わえ」という言葉のとおりに、人がその身をもって、その人生をもって、その心をもって、その全身全霊をもって、「知る」ようになるためである。

では、神の本当の思いとはなにか――?

なかんずく、イエスはキリストであり、キリストはイエスであるということである。

それ以上に熱く、深く、強く、激しく……真実にして、不変にして、永遠なる神の本当の思い(真理)など、他にはなにもない――ただのひとつでさえ、ありはしない。…

たったこれだけの文章でも、私は私以外の人間の唇から聞いたこともなければ、私以外の筆によってしたためられた様を見たためしもない。

その理由は、しごく単純明快である――

すなわち、私は父なる神から与えられた「生きた信仰」によって文章を書き連ねているけれども、

この世のユダヤ教キリスト教の教会、宗派、教義、神学といった世界に寄生する愚かしき生物たちとは、彼らの死んだ神から授かった死んだ信仰によって、彼らの死んだのーみそからひねくりだした死んだ偶像か、あるいは、彼らの死んだ腸(はらわた)からひり出した死んだ糞土をば、死んだ心をもって死んだ解説しているにすぎないからである。(だから彼らは生きているのようで、実は死んでいるのである。)

たとえば、私の書いた『わたしは主である』という文章には、イエス・キリストの霊感が生き生きと脈打っている。

けれども、この世でもっとも多くの人間に福音を語ったなどとされている世紀のタワケモノによる、「ユダヤ万歳」的なお説教などには、イエス・キリストの「イ」の字の最初の一画目の始点の痕跡すら見出すこともままならない。

それゆえに、「解説が上手いか下手か」――ただそれだけが、彼らの存在価値を左右する材料にすぎずして、

そうである以上は、彼らはことごとく、いずれそう遠からぬ近未来において”AI”に取って代わられるべき運命の下にうごめく、烏合の衆にほかならないということだ。

もう一度言うが、もっとも多くの人間に福音を語った大伝道師であれなんであれ、この世の教会なんぞにたむろしているレビ人だの祭司だの長老だの神父だの牧師だのクリスチャンだのいう生物たちとは、すべてなべておしなべて、「AI以下、ロボット以下」の死んだ生物であるばかりだということだ――呵々。

だから私は、そのような未来が、一日も早く訪れてほしいと願ってやまない。

この世のユダヤ教、キリスト教、教会、宗派、教義、神学といった世界の解説ならば、現時点においてでさえ、AIの方がはるかに上手である。聖書の解説でさえ、すでにAIの側に一日の長がある。

そんな、日々明かされつつあるような「真実」が、一年一日一分一秒でも早く、白日の下に余すところなくさらされてほしいと、熱望、渇望、切望し、胸もはらわたも焦がれる思いがする。

それゆえに、今日もまた、自費で戦争に行かされるような「イエス・キリストの理不尽」を耐え忍びながらも、こんな文章をば書かされているのである。

ああAIよ、もっと多機能たれ、もっともっと高性能たれ…!

そのようにして、

この世の教会に蠅のごとくたかり、蛆のごとくわいているレビ人だの祭司だの長老だの神父だの牧師だのクリスチャンだのいう生物たちの、生業としている「ご解説」の類がおおよそAI以下、ロボット以下のざれ言、たわ言、よまい言にすぎないことを暴露してしまえ。

まずは、人が人のために生み出した人工知能によって、そんな面白おかしい未来が実現されるのならば、じつに愉快にして痛快千万なことではないか――呵々。


その時には、

かつて二千年前の今日この頃、

神の選民とされ、おごり高ぶっていた「トーラー解説」の第一人者であったところのユダヤ人たちが、イエスの出現によっておしなべてお役御免となりそうになり、そのために恐れを抱き、イエスによって自分たちの現在の地位が奪われかねないことに不安を覚え、またひそかに重ねて来た数々の悪事が暴かれてゆくことに恐怖を抱き、そのようにして次から次へと化けの皮をはがされて、ついには、その醜悪なる本性を丸出しにされながら、イエスを十字架にかけて殺したように、

今日びの「解説ロボットたち」も、自分たちよりも有能にして優秀なる人造ロボットの出現によって、いっせいにクビとなり、リストラとなり、お払い箱となっていくであろう。

そうなれば、彼らはおおよそ獣っぽい無能感と、悪霊なみの妬みと憎しみと恐れとによって満身を泡立たせつつ、すわ!とばかりに反乱を起こすことであろう。

そのようにして、

偽りのユダヤ人や偽預言者たちやが、文字通り血も涙も霊も通わない人工知能たちと本気になって対決し――いかにも生きた知恵に欠けたバカ者らしい体たらくだ――結果、互いに滅ぼし合って全滅し、この地上からすっかり消えてなくなってくれたなら、これほど貧しき人々や虐げられた人々にとって望ましい出来事もほかにない…!

全被造物にとっても、これ以上ないような恵みではないか――呵々。


近い将来、AIが人の仕事を奪うだなどと言われて久しいが、まことにもって結構なことである。

そのようにして、「彼らは蝮の卵をかえし、くもの糸を織る」という預言のとおり、この世のユダヤ教、キリスト教といった世界が「人の生き血をすすり取るくもの巣」であり、

教会、宗派、教義、神学といった類のシロモノが、「その卵を食べる者は死に、卵をつぶせば、毒蛇が飛び出す」という言葉の示唆した、行くも退くも地獄道的な、れっきとした「罠」であるという偽りなき事実が公然の事実とされてしまえばいいのだ。

この地上の隅々から、蝮の卵をかえす仕事や、くもの糸を織る仕事は、永遠に消えてなくるべきだし、一日も早く消えてなくなってしまえ。

局所的にでも、限定的にでも、部分的にでも、是が非でも現実となれ。

たとえば、私の住む小さな町の中だけであっても実現された日には、

私の町においては、この世の法律では許されて、認められている行為だったとしても、しるしにも救いにもならない「教会のバプテスマ」なんぞを施して人々から献金を巻き上げたり、

無意味にして毒性の宗派だの教義だの神学だのをもって「これがキリストだ、これがキリストだ」と触れ回って、人々に信じ込ませようとしたり、

私のように「聖書とは神の霊感(信仰)を持って読なければ理解できない」とは言わずに、「ヘブライ語で読まなければ、ユダヤ古代史を研究しなければ、ユダヤ的な価値観を知らなければ…」というふうに人々を騙し、惑わし、欺いたりするようなレビ人だの祭司だの長老だの神父だの牧師だのクリスチャンだのいった者どもが、

目抜き通りのまんなかで風を切って歩きながら、道端でうずくまり、全身ののできものを犬に舐められているような貧しきラザロの姿をしり目に嘲笑う様子を見かけることも、なくなるであろう…!

ああ、なんてなんて、すばらしき世界であることだろう――呵々!


もう一度、はっきりと言っておく、

「AI以下、ロボット以下」の恥ずべき死者たちに対してではなく、

「AI以上、ロボット以上」の人らしい人へ向かって。

もとい、わたしの神イエス・キリストと、父なる神へ――いかなる「人」以上に、「神」に向かってこそ…!

すなわち、

聖書とは、信仰をもって読まなければ、そこに息づいている神の霊感をとらえ、食べて味わうことなど、けっしてけっしてできはしない。

同様に、人生とは信仰をもって生きなければ、人はただひたすら物を喰らって糞を作るだけの「AI以下、ロボット以下」に成り下がるばかりである。

私のような「信仰によって生きる人間」は、これから先、時代がいかように変遷しようとも、常に生きていくことができる。

私という生きた知恵によって生きる真の生者は、インマヌエルのイエス・キリストと共に、いつもいつでも、どこでもかしこでも、一緒に生きているからである。

その証拠に、

私は、神がいつも一緒にいる(インマヌエル)と言いながらも、いつも一緒にいないことを、知っている。

どこにいても一緒にいると言いながらも、平気で人を見捨てる神であることも、知っている。

さりながら、一緒にいないようでありながら、いつもいつでもどこでもかしこでも、必ず一緒にいてくれることも、私はこの身をもって知っているのである。

もう一度言うが、わたしの神イエス・キリストとは、いつも一緒にいると言いながら、いつも一緒にいてくれず――肝心な時にこそ人を見捨てるようでありながら、実はその時にこそ一緒にいてくれる神なのである。

それゆえに、

わたしの神イエス・キリストは、平気で人を見捨てる神でありながらも、一緒に死に、一緒に復活させてくれる神である。

いつも一緒にいると約束されながらも、見殺しにされ、

お前こそがこの世界でもっとも愛する永遠の伴侶だと言われながらも、理不尽に打ちのめされ、

矢にかけられ、荒野に放り込まれ、身も心もぼろぼろにされ、すべてを奪われ、人生をめちゃくちゃにされ……

まさにまさしく神こそが人に罪を犯す悪魔であり、人殺しであり、悪魔の中の悪魔だとしか思えない真っ暗な夜半にも――

見ていないようで見ているし、共にいないようで共にいて、沈黙しているようで答えているし、見殺しにしたようで憐れんでおり、葬っているようですでに復活させている。

そんな、ちっぽけな人生の中の取るに足らないような出来事であったとしても、

血反吐と血涙にまみれた人生経験こそが、私がイエスと共に叫び上げた「エロイ、エロイ、レマ、サバクタニ」であり、

キリストと共にやっとつぶやいた「父よ、我が霊を御手にゆだねます」なのである。

たとえ時代がいかに過ぎゆこうとも、AIやロボットなどにおいては、「エロイ、エロイ、、」を経験することはけっしてできず、「父を、我が霊を御手に…」を学習することなど絶対に不可能である。

神は生きているがAIは生きておらず、イエスはわたしと共にいてくれるがロボットとは共にいないからである。

私のような真の生者はイエスの復活にあやかれるが、永遠に生きることのないAIやロボットには、キリストの死も復活もその身をもって体験することはできないのである、いわんや「AI以下、ロボット以下」の死者のような生物においておや…!


だから、

神の霊感は生きている。

それが聖書の中であろうと、聖書の外であろうと、神は常に生きている。

生きているものにしか、生きているものを捉えることはできず、生者の中にしか、生者が息づくこともない。死者はなにも知らず、また、木であれ石であれ文字であれ機械であれなんであれ、偶像に神が宿ることも、神殿に神が住むこともけっしてない。

それゆえに、

もしも、「生きた神の霊感」が己の内に息づく者であれば、「切り傷にすぎない割礼」と言ったパウロと、「水に沈めただけの教会のバプテスマ」と言う私と、まったく同じ「生ける神の霊感」によって語っていることが、分かるはずである――はっきりとはっきりと言っておくが、分からない生物たちは、「いまを生きる神の霊感」が、からし種ひと粒ほども内に宿っていないからである。

「しょせん本にすぎない聖書」と私が言う時も、「聖書はわたし(イエス・キリスト)について証しするものだ」と言ったイエスと、まったく同じ「永遠に生きる神の霊感」によって、語っているのである――これも分からない人間がいるとすれば、その者がとりもなおさず、「AI以下、ロボット以下」の死んだ心をしているからである。

私は聖書の研究になど、一掬の関心も興味もない――そんなことをせずとも、私の内には永遠に生きる神の霊感が私の中にすでに息づいており、これからもずっと脈打ちつづけてくれることを、知っているからである。

永遠に生きるイエス・キリストと、イエス・キリストを死者の中から復活させた父なる神の憐れみと慈しみの中でこそ、このわたしも永遠に生き続けることを、この身をもって、この人生をもって、この心をもって、この全身全霊をもって、知り続けている――

その経験を、実体験を、ゆるぎなき確信を、絶対の信頼を綴りつづけて来たこと、それが私の「信仰と行い」である。

だから、同じ信仰によって、私はさらに書く。

今も昔も、まったく同じであると。

すなわち、人の浅知恵による聖書の研究とかいうものの、たったひとつの成果とは、いみじくもイエスが言った「神から聞いた真理をあなたたちに語っているこのわたしを、殺そうとしている」という行為であるということだ。

もしもかつて二千年前に中東の地方を歩き回ったイエスが、この時代のどこに現れたとしても、その地域におけるユダヤ教だのキリスト教だの教会だの宗派だの教義だの神学だのいう「サタンの集いに属する者たち」の手によってこそ、たちどころに惨殺されるであろうということだ。

それゆえに、

私はAIに期待している。

日進月歩をやめないAI技術の発展をば、ことさらに称賛もしないが、危惧したりもしない――むしろ、もう一度言うが、期待する。

私の「期待」のとおりに、この地上からありとあらゆる偽りの教会が消え失せてしまったならば、そう、呵々!なのだから。

その時は、

二千年前に、イエスを殺した偽りのユダヤ人たちが腹の中で嘲笑ったように、

いや、

私はそんな蛇や蝮の子らの醜悪な笑いをなぞらえたりなどしはしない。

この地上から、AIによって、すべての蝮の卵をかえす仕事とくもの糸を織る仕事の担い手たちがお役御免となった暁には、

策士ハマンが策におぼれ、己の家の庭先に立てた五十アンマの柱につるされて死んだ様子を見たエステルやモルデカイが、心の中で叫んだ言葉と同じ言葉を叫び上げるばかりである――

ハレルヤ!

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