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憐れみの器



――
ああ、神の富と知恵と知識のなんと深いことか。だれが、神の定めを究め尽くし、神の道を理解し尽くせよう。
――


『エロイ、エロイ、レマ、サバクタニ』という文章を書いて、イエスがこの地上で残した言葉の中で、「エロイ、エロイ、、、」こそもっとも重要なひと言であるという趣旨を綴った。

というのも、「エロイ、エロイ、、、」という叫び声を上げなければならないほどに追い詰められた人間にとって、かつてイエスもまた自分と同じように悶え苦しんだという事実は、それ以上にない慰めとなるからである。

イエスという人間、そして、イエスという神もまた、この地上において「エロイ、エロイ、、、」と言って狂い回り、のたうちまわった――それゆえに、イエスはそのような叫び声をけっして聞き漏らすことなく、そのような人間を憐れみ、そのような人のかたわらに居続けることを約束した。

たとえ何と引き換えてでも、神はそのような人に「インマヌエルの約束」を守り続けることを宣言した――これこそ、「エロイ、エロイ、、、」という叫び声に胸を焼かれ、「父よ、我が霊を御手にゆだねます」というつぶやきにはらわたを捩らせた憐れみ深き父なる神が、イエス・キリストの十字架の死と復活を通して全人類に与えた「永遠の約束」なのである。

またこれこそは、

我が人生において、私が自分自身の身をもって食べて味わった「神の言葉の実現」であり、

そして、「イエスはキリストであり、キリストはイエスである」という確信をもたらした、実体験であった。

それゆえに、

幼少期からの私の苦悩であるところの、「イエス・キリストはほんとうにわたしの神であるのか」という問いかけに対して、

「エロイ、エロイ、、、」という言葉をもって、イエスはたしかに答えていたのだった。


『命をかけた祈り』という文章を書いて、私は信仰という神の霊に満たされて、わたしの神、イエス・キリストに憐れみを祈り求めた。

私の先祖であり、真の同胞であるところの、ヒロシマとナガサキの犠牲者たちのための、神の憐れみを祈り求めた。

そして、そのような私の祈りが、イエス・キリストのとりなしによって、憐れみ深き父なる神のもとへ届けられたことを、私は信仰によって知っている。

さらには、自分がこの時代の、この場所に生を受けたことが、まさにこの祈りのためであったと、同じ信仰によって確信するのである。

『神の心(憐れみ)』や、『信仰というもっとも愚かなる…』やという文章においても同様のことを書いたのは、

ヒロシマやナガサキの同胞たちが残した悲しみや怒りや無念やに対して、イエス・キリストがたしかに報いることを約束したことを、私が信仰によって知るようになるためであった。


だから私は、「イエス・キリストはほんとうにわたしの神であるのか」という血反吐を吐くような私の問いかけに、イエス自身がはっきりと答えたことを知るのである。

「エロイ、エロイ、、、」という咆哮を上げなければならない、神の与えた絶望の夜半に、私はヒロシマとナガサキの同胞たちのことを心に思った。

「父よ、我が霊を御手に、、、」という、消え入りそうなつぶやきを漏らしながら、彼らの残した悲しみや怒りや無念やを、さながら命の水のように飲み下し、イエスの血や肉を食むように咀嚼し、嚥下した。

私にとって、それらはすべてイエスの十字架の死のような苦しみであり、また慰めであった。

だから私は信仰によって、それが神の経綸であったことを知る。

すなわち、

憐れみ深き父なる神が、イエス・キリストを通してすべての人間を――かつて生きた人間も、いま生きている人間も、これから生きる人間も――憐れもうとするように、

イエス・キリストは私を通して、ヒロシマやナガサキの同胞たちを憐れもうとしたのである。

いや、ヒロシマやナガサキの同胞たちをこそ「憐れみの器」とし、その器の中に「わたし」を盛ったのである。

そのようにして、

イエスが私を憐れむ時、ヒロシマやナガサキの同胞たちもまた憐れみを受け、

ヒロシマやナガサキの同胞たちが憐れまれる時に、私もまた同じイエスの憐れみに与かることができるように、と。


私を「憐れみの器」としたのは、イエス・キリストであった。

『わたしは主である』という文章にも書いたように、私はかつて私を奴隷の身分として虐げ、苦しめ続けた「エジプトの地」から這い出して、紅海を渡り、荒野をさすらい歩いた。

それは、とうてい生きるに値しないような「荒野」のただ中にあって、イエス・キリストとのふたりぼっちの世界を生き抜くための、神の訓練であった。

身体にとっても心にとっても霊にとっても、まるでまるで永遠に続くかのような厳しく、激しい虐待のただ中にあって、私は「わたしは主である」というイエスの言葉の真意を、奥義を――そのひと言の中に託されたイエス・キリストのほんとうの想いを――この身をもって知るにいたった。

それゆえに、

かつてモーセが、神の憐れみの山「ピスガ山」に登ったように、

私もまた私の人生にあって、文句なしの神の憐れみの山「イエス・キリストの山」に登った。

その山頂において、私は復活したイエスの霊に満たされて、また祈った。

私の真の家族であるところの、ヒロシマとナガサキの同胞たちのために、イエス・キリストの憐れみを祈り求めた。

そして、その祈りもまた、イエス・キリストのとりなしによって、憐れみ深き父なる神の心に聞き入れられたことを、

わたしに向けられた、わたしだけが知るイエスの永遠の微笑と、父なる神の慈しみの御顔によって、知るのである。


イエス・キリストはほんとうにわたしの神なのか――?

『ソドムとゴモラ』という文章でも書いたように、私はさながらソドムとゴモラのように滅ぼされた私の故郷と、愛する人と、私の心とを取り戻すべく、なんどとなく、神と決闘をくり返してきた。

生きながらえたことと死んでしまったこと、はたしてどちらが幸福であろうか――?

齢二十にも満たない頃からくり返された煩悶を――ソドムとゴモラの焼野原の底からかき分けた瓦礫を――すべての思いを託した、粉々に砕け散った心の破片を――

イエス・キリストの顔に向かって、投げつけた。

それゆえに、

イエスははっきりとした答えを私に与えた。

いや、すでに与えていたのである。

私は私のために重ねつづけて来た祈りが、知らず知らずのうちに、ヒロシマやナガサキで死んだ同胞たちのための、憐れみを求める祈りに繋がっていたことを知った。

ソドムとゴモラを故郷とする私に、はじめから、そんな意図があったわけもない。

ソドムに生まれ、ゴモラに育まれていた罪深き私の祈りとは、はなはだ「自分本位」であり、「利己的」であり、「自分のことしか考えていない」ものに違いなかった。

私はむしろ、ヒロシマやナガサキで殺された先祖たちの残した悲しみや怒りや無念やを、神が与えた絶望の夜にこそ、自分の歯で噛みしめ、その心を食むことで、生かされていたのだった。

それゆえに、ヒロシマやナガサキで死んだ同胞たちの物語こそ、私のための「憐れみの器」だったのである。

自分本位で利己的で自分のことしか考えていなかった私の心は、父なる神の慈しみによって、ヒロシマとナガサキという「憐れみの器」の中に盛られた。

自分本位で利己的で自分のことしか考えていなかった私の心は、父なる神の愛の鞭によって、ヒロシマとナガサキの物語を盛るための、「憐れみの器」として造りかえられたのである。

そのようにして、父なる神がイエス・キリストを通してヒロシマとナガサキを憐れむ時に、わたしもまた、その「憐れみの食卓」からこぼれ落ちたパン屑を得られるようになるために。


「わたし」という心の器には、ヒロシマやナガサキで死んだ人々の思いが盛られている――顔も知らず、名前も知らず、実際に会ったことも、話したことすらない人々であっても、彼らは私の同胞であり、先祖であり、家族であり、愛する人々である。

なぜとならば、彼らの悲しみや怒りや無念やが、これまでずっと、私を生かしつづけて来てくれたからである。

彼らの流した涙を飲み、彼らの身から流された血膿をすすって、私は神によって突き落とされた死の陰の谷を歩きつづけ、生き永らえた。

たしかにたしかに、彼らの残した思いは、私の心の中にある――貧弱な、貧相な、貧賤な器にすぎずとも、彼らの流した血に染まった「エロイ、エロイ、レマ、サバクタニ」は、「わたし」という器に盛られたからである。

それゆえにそれゆえに、

わたしの神、イエス・キリストは、そんな「わたし」という器に、「神の憐れみ」を注いだのである。

私の心の中に、「イエス・キリストの霊」が注がれる時、私のたなごころに刻まれたヒロシマとナガサキの同胞たちの上にもまた神の憐れみが注がれるようになるためである。

父なる神の憐れみこそ、「イエス・キリストの霊」にほかならないからである。


そう遠くない未来において、私の肉体は滅びていく。

しかし、私の身体が滅びても、「わたし」という心、「わたし」という器は、けっしてけっして滅びることがない。

イエス・キリストの憐れみが溢れるほどにそそがれた器として、永遠に生きつづけるのである――それが、憐れみ深き父なる神がイエス・キリストを通して私に与えた、「イエスとわたしの約束」だからである。

イエスは、右も左も分からない子どもの私を、まるで人さらいのように誘拐して、荒野へと連れ去った。

イエスは、この世で立派に生きていた私の家に、まるで強盗のように押し入って、さながら詐欺師のようにあざむき、私の人生を崩壊させた。

イエスは、私が大切にしていた取るに足らない生活を、ささやかな幸福を、ちっぽけな故郷を、まるでソドムとゴモラのように滅ぼして、私からすべてを奪っていった。

イエスは、たかが虫けらのような私の身も心も生活も、あてがわれた玩具のように意のままにもてあそんだ挙句のはてに、もはや二度と修復できないほどに壊してしまった。

私の上に、いわれなき苦しみと痛みと呻きと嘆きとをもたらしたのがイエスであったのか、イエスの許しを得た悪魔であったのか、そんな真実は私にとってはどちらでもいい――私にとって重要なひとつ事とは、私の大切にしてきたものは、あの日、ことごとく滅ぼされてしまったということなのだから。

そういう私を生かしてくれたものが、ヒロシマで死んだ先祖たちの残した悲しみであり、怒りであった、

ナガサキで殺された同胞たちの流した血であり、涙であった、

自らの命をかけて空へ飛び立った、年端もいかぬ勇者たちの、愛であった…。


イエス・キリストの霊である信仰によって、私は知っている。

太陽がまた昇るように、私はヒロシマやナガサキの同胞たちと、「また」会うことができる。

かの日にあって、私がイエス・キリストとついに顔と顔を合わせてあいまみえることとなるように、

私がこの地上に生まれ落ちるはるか以前に死んでしまった者たちであっても、この時代の私の心の中でなお生きつづけている同胞たち一人ひとりと、かの日にあって、ついに顔と顔を合わせて会うことができる。

それが、イエス・キリストを通して、父なる神が「私たちに与えた約束」だからである。

私がこの地上に生まれ、今日まで生き永らえて来たのは、わたしだけのイエス・キリストに出会うため。

それが、わたしだけに託された、イエスの希望。

わたしにしか見いだせないイエスにあいまみえることが、わたしだけに語りかけられた、イエスの声。

イエスは、私の心という器に、ヒロシマとナガサキの涙を盛った。

ヒロシマやナガサキの同胞たちの思いは、私の魂を巡り、拡散されていった――実に、それは私の血液の流れの中を、毒が回るようなものだった。

しかしイエスは、「わたし」という器を選んだ。

私を滅ぼすことができたほどの悲しみや怒りや無念やを、私の心の器に注いだのである。

それが、私が母の胎内にある頃から、イエスに知られ、イエスに選び分けられた理由だった。

私はヒロシマやナガサキの同胞たちの悲しみや怒りや無念によって、この身を滅ぼされるほど弱かった、けれども――

いや、だからこそイエス・キリストは、ぼろぼろになって、もはや完全に壊れてしまったような私の心の、その「破れ目に立った」のであった。


すべての人間がいずれ必ず死ぬように、私も遠からぬ将来に死んでいく。

しかしその時、私はもはやいかなる悲しみも怒りも無念も、この地上のいずこに残していくこともない。

その時は私は私の道を走り抜き、私の戦いを立派に戦い抜いたと、胸を張ることができる。

「今」という時を、「今日」という恵みの日を、私は一生懸命に生き抜いて来た――私の同胞たちの死んでも死にきれないような思いを、心の中に抱え続けながら。

そのやりきれない思いに終生、悩み苦しみながらも、「今日」という神の憐れみと慈しみの中で、私は、選び分けられた私に与えられた使命を、はたし続けてきたのだ。


私の心は、なにごともイエスに聞こうとする。

これまでの、取るに足らないような人生の日々を思い返してみても、それは長い長い旅だった。

長い長い苦しみの連続で、長い長い苦難の旅だった。

こんな文章を書くのは、これですべてが終わったからなのか、あるいは――

愚かにして憐れましい私には、なにも分からない。

それでもイエスは、そんな私にたしかな回答を与えた。

ヒロシマやナガサキで死んだ同胞たちを憐れむとともに、私をも憐れむために、私を「憐れみの器」とした。

それが、私の青春からくり返された、いわれなき苦難の理由であった。


私の心はなにごともイエスに聞こうとする。

私は私の人生に起こった不可解な出来事について、その「なぜ」を問うて来た。

がしかし、私はもう「なぜ」の追及をやめた――己に対しても、己以外のいかなる対象に対しても。

その代わりに、ただ、信じることを選んだ――己の心の中に、今なお生き続ける人との再会を。

イエスはどうして私を選んだのだろう。

私のような繊細で、やさしい心をした――ごくごく平凡な、もろくて弱い心をした――素直に屈折し、捻くれているようで竹のようにまっすぐな心をした――「わたし」という器を…。

私は「なぜ」と問いながら、「なぜ」以上の「わたしらしい心情」を訴えて来た。

イエスはそれに応えた――私の「なぜ」にではなく、「わたしらしい心情」にこそはっきりとした回答を与えた。

それゆえに、私は知る。

今日まで私を苦しめて来たすべての出来事は、私を、わたしだけのイエス・キリストに導いていた。

わたしにしか見いだせず、見つめることもできないイエスの顔を見つめながら、私が祈るためであった。

そのようにして、私は私の心に生きる、数えきれない同胞たちのために祈った。

彼らのための「エロイ、エロイ、レマ、サバクタニ」は自分のための祈りであり、

自分のための「父よ、我が霊を御手に委ねます」は彼らのための祈りだった。

そのようにして、わたしだけのイエスが私の人生にもたらした不可解な、いわれなき不幸のすべては、私ばかりか、私の同胞たちをも憐れむためだったことを知った。

イエスが私を憐れむことは、私の心の中にいまなお生きている私の同胞たちを憐れむことにほかならず、

父なる神が私の同胞たちを憐れむことは、私を憐れむことにほかならなかった。

――ああ、神の知恵と愛と慈しみの、なんとはかり知れないことだろうか…!

「目が見もせず、耳が聞きもせず、
人の心に思い浮かびもしなかったことを、
神は御自分を愛する者たちに準備された」

幼き頃より、いかに憎み憎んだ神であろうと、

今なお、いかに憎んでも憎み足りないイエス・キリストであろうと、

我が魂は、どうしてイエス・キリストを賛美せずにいられるだろう。

我が全身全霊はどうして、わたしだけのイエス・キリストを愛さずにいられるだろう。

我が唇はどうして、わたしだけに明かされた、イエス・キリストの新しい名前を歌いあげずにいられるだろう――イエスがわたしだけに与えた、わたしの新しい名前を呼ぶように…!

我が唇よ、歌え、歌え。

我が同胞たちの魂とともに、永遠の命の続くかぎり、わたしたちだけのイエス・キリストの歌を歌え、歌え。


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