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「次世代に受け継ぐ」ということ


保育園看護師となって10年以上、毎月休むことなく「ほけんだより」を書いてご家庭へ配布しています。
12か月×10年以上の子どもの保健関係のネタ。
これはたくさんあるのに自分のこととなると手が止まってしまいます。
だから、とっても長くなるけど私、たったんのことを少しずつ綴っていきます。
お付き合いいただけたら幸いです♡



保育園ナースになるまで

東京都だけど、昼間はネコが道のど真ん中で平和に昼寝している。
用水路に沿う道を歩くと水の流れる心地よい音が自然と耳に入る。
そんなのんびりした町で生まれ育ち、今もこののんびりした町に住んでいる。

祖父母と同居していたけど、共働き家庭。
だから0歳から保育園に通っていた。
保育園でたくさんのことを教えてもらい、たくさん遊んでケンカして。
おもちゃを奪うために友達の頭をひっぱたいている姿の写真が残っていたり、お散歩に行けば誰かしら田んぼや用水路に落ちていた。
もちろん私も落ちた一人。
それが笑ってすまされる。
今では考えられないとんでもない保育が許された時代に、保育園っ子の一人としてのびのび育った。

小学生のころ、当時看護婦として勤めていた祖母の精神科の病院に時々遊びに行った。
夕涼み会のようなイベントへ行ったときのこと。
車いすの患者さんがナース服姿の祖母に親しげに話しをして、祖母も少し腰をかがめて穏やかなやさしい表情をしていた。
少し離れた場所から見ていた私には、二人がシルエットのように浮かび上がる光景で、とても美しく、あこがれを抱いたのを今でも鮮明に覚えている。
「看護婦さんになりたい」
このとき初めてそう思った。

中学高校は毎朝6時過ぎの電車に乗って都心まで通学。
お勉強は下から数えたほうが断然早かった。
特に文系科目は散々。
私は日本人なのに、さらに母は国語科の高校教員なのに、私ときたらまったく国語ができない。
学校は国語に力を入れていたこともあり、おかげでとっても鍛えられ、なんとか人前でそれなりに日本語が話せるようになった。
でも、今もまだまだ苦手。
日本語・英語問わず、語学が本当に苦手で、時々、私よく社会生活送れているなと思う。
部活は、運動部。
水を飲まないのが美学的な考えの最後の世代で、今考えれば、よくやっていたなと思う。

大学は地方の大学にご縁があり、4年間を地方都市で過ごした。
とにかく4年間貧乏で、当時19円だったモヤシしか食べられないときがあり、今思えばかなり過酷な日々だった。
それでも頑張ったのが短期留学費用の工面。
バイトしたり家族に頭を下げたり色々資金集めをした。

なんとか行けたアメリカへの短期留学。
そして初海外。
なにもかもが新鮮で刺激的で。
そしてなんとも言えない初めて味わう解放感。
とっても心地いい時間。

プログラムのほとんどが看護系の内容。
ネットの情報はあまりない時代、というかPCを起動させてもすぐにフリーズするのが当たり前だったし、まだまだ書物で情報を得ることを求められた時代だった。
だから、予習といってもネットの情報はなく、書物と教授の話だけ。
出発前は全然想像できない異国の地=未知の世界。
だから空港に立った瞬間からすべてにカルチャーショックだった。
実習先のナースステーションに給水機があるかと思いきや、水じゃなくてコーラが出てくる!のも驚き。
飲食禁の日本のナースステーションから比べたら目玉が飛び出る。
本題の留学は、断然日本よりも進んでいる看護の世界に感動した。
特に母子保健の考えかたの違いにはとても驚かされた。
産後1週間で職場復帰して、さらに職場に赤ちゃんがいる。
その職場が州の母子保健センター。
出産は病気じゃない、健康的な人間の生きる力。
働くのも同じ。
これらの考え方は今でも私の中に、母子保健や女性の社会進出についてのベースとなる考えとしてしっかり残っている。

でもまぁ、とにかくホントに毎日が刺激的で衝撃的!
そして毎日ホストファミリーがおやすみのアイスクリームをくれて、1週間に1キロ増量ペースで、心も体もいっぱい満たされて日本に帰ってきた。

日本に戻ってきてからは、ぜんぜんキラキラできない、なんだか抜け殻、何とも言えないどんより感。
日本のテンションについていけない自分に気がついた。

だから、なんとなく生きていくためにバイトして、なんとなく病院勤務できるようになるため国家試験の勉強をして、なんとなく大学を卒業して、なんとなく就職した。
特に深く考えずに就職した大病院は、当時、看護師が倒れると噂の全国ベスト3に入る有名病院だった。
でも、自分はそんなに弱くないと思っていた。

看護師1年目
産婦人科・内分泌外科・血液内科・皮膚科の女性患者さんの病棟に配属された。
毎日、オペ・出産・化学療法・終末期治療・急患対応と、内科も外科もなく、なんでもありの病棟勤務。
人が足りないと言われれば産婦人科外来にも行ったし、隣の病棟の小児科にヘルプで行くこともあった。
だから毎日周りについていくのに必死で、帰宅しても3時間取れればラッキーな睡眠でまた出勤。
時間外に課題テスト課題テスト・・・
気づいた時には遅く、うつ病を発症していた。

ため息が止められない。
疲れなんてとれない。
寝られない。
食べられない。
休みの日は気づいたら泣いている。
1年、いや、半年で14キロ痩せた。
1年で病院を辞めた。

辞めても全然すっきりしない。
どんどん闇にはまっていった。

そんな私に光が差したのは、ふと、保育園時代のことを思い出したことがきっかけだった。
そこからなんとなく保育園に足を運んだ。
それが私の人生を大きく変えた!


保育園ナースになった

ふと思い出して足を運んだ保育園。
私のことは覚えていないだろうと思いながらもインターフォンを押すと
「たったん!?」
と返答があり、驚いた。
私が子どものころにお世話になった先生は、まだ3人働いていた。
顔を見ただけで、思い出してもらえるものなんだと、うれしくなった。
しばらく思い出話をしていると「うちで働かない?」と園長が声をかけてくれた。
(後から聞いた話だけど、私がうつ病だと先生たちはこの時に気づいていたらしい。先生って、すごい!)

東京都の認可保育所は一定基準の規模の保育所には正看護師・栄養士を配置しなければならない。
この保育所は何年も募集をかけていたけれど看護師が来なかったらしい。
このころはまだ「臨床で働きたい」という気持ちが残っていたから躊躇した。
でも、うつ病で体調も思わしくない私に声をかけてくれるところはきっとここしかない。
正直、「まぁ仕方ないか」という思いの方が強いままお世話になることにした。

そう。
私は自分が卒園した保育園で働いている。

もちろん夜勤なし。
勤務時間は8~17時。
定時で追い出される=残業なし。
歩いて出勤。
給食と3時のおやつは子どもと同じものを食べる。
凄く健康的な毎日を送れるようになった。

ただ、月から土までの6連勤の週があり、はじめのころはかなりきつかった。
月給も今までより少ない。
保育士メインの職場だから、発言権はあまりない。
看護師は一人しかいないから相談できる相手もいない。

体調不良に対して規則正しい生活リズムはとても良かった。
でも、看護師としてここで働き続けるには限界も感じていた。
「働いても3年かな」と思っていた。

働き始めて丸2年になろうかというころには、規則正しい生活習慣のおかげで体調不良を感じる日はほとんどなくなった。
うつ病の症状もなくなり「もう自分は大丈夫」と思えるようにもなってきた。

そんな中迎えた2011年3月11日(金)東日本大震災。
お昼寝から早く起きた女の子を抱いているときに大きな揺れに遭った。
本震後も余震の度に避難し、最後の一人の子の迎えが来るまで落ち着かなかった。
緊張感が取れないまま帰宅し、余震におびえる犬たちと一晩ほとんど寝ないで過ごした。
もちろん都心まで働きに行っていた家族は、その日誰もかえって来なかった。
食事をするのも忘れ、翌日出勤して食べた給食が温かくておいしかったのを今でも覚えている。
メニューは豚汁うどんだった。

被災地に比べたらかすり傷にもならないくらいの被害だったが、余震や放射能被害、計画停電などへの対応を保育所としても迫られた。
そんな中、私の意見を求められることが多くなった。
内容は保健関係ばかりでなく、園の運営や保育に関することも多くなった。
このころから少しずつ、他の職員との連携が強まり、信頼も上がっていったのではないかと思う。

日々、職員からも保護者からも信頼されることが増え、たくさんの仕事をこなし、充実していく中、逆に心の中で引っかかるものがあることに気づき始めた。
震災後で大変な毎日だけれど、被災地に比べたら全然普通の生活が送れている幸せ。
同じ日本にいるのに、私は普通に暮らしていていいのか?
東京にいる私にできることはないのか?
被災地ボランティアに行くことは仕事上できないし、何かを寄付するにもただ何かを送るだけになる。
私ができる、私らしい支援てないのかな?
そんなことを思いながらも、これといってピンとくるものはなかった。
ただ時だけが過ぎていくようにも感じた。

そんなある日、テレビで芸術家の奈良美智さんを知った。
彼の作品に引き込まれる自分に気づいた。
「テレビでなく、本物が観たい」と素直に思った。
探すと青森県立美術館で個展が開かれる。
絶対行こう!なにがなんでも行こう!

これが初めての一人旅。
そして気づいた。
東北に行く=東北を見て感じられる=被災地を感じられる=被災地を知る
そして、被災地にお金を落とせる、誰かの生活のためのお金になる。
東京に帰ってきたら、誰かに伝え、その誰かがまた私のように東北に足を運んでくれるかもしれない。
小さな小さなことだけど、私のためにもなる、私にできる私らしい支援になるのかなと思った。

私にもできる小さな小さな支援の一人旅から、少しずつ私の世界が広がっていった☆


世界が広がる

私にもできる小さな小さな支援の一人旅は東北新幹線に乗って行った青森県。
このとき泊まった宿での出会いが、また私に刺激を与えた。
町はずれにある温泉宿。
もちろん源泉かけ流し!
ちょっと風変わりで、オジさん率が高く、ライダーさんも多い、呑兵衛ばかりが泊まる宿。
小さな食堂でビールを飲んでいると、20代女子の私はもちろん絡まれる。
そのうち、オーナーや板長、オーナーの娘さんが加わって大宴会が始まる。

温泉の泉質が身体にあっていたこともあり、青森はとても遠いけど、気づけば常宿になり、年2回は泊まりに行くようになっていた。

何度目かの宿泊の時に出会ったライダーさんの話が忘れられない。
「俺のバイクは2代目。20代のころから乗ってた1代目は、津波にやられたよ。家も車も全部なくなったのによ、3か月後に家の近くでバイクだけが見つかったのよ。乗れる状態じゃなかったけどな。もちろん修理なんてできないよ。俺もかぁちゃん(奥さん)も生きてるけど、近所で何人も亡くなってさ。あーあ、って思うけど、バイク見つけて思ったんだ。生きて好きなことして、亡くなった人を供養しようって。見つけたバイク引きずって、世話になってる店持ってって、新しいのと交換してって言って、今2代目に乗ってるわけよ。元気に生き続けることがやっぱり大事だよ。だから俺はバイクで今、旅してんだ。」
胸が苦しくなるような話を、おじさんは笑顔で目を輝かせて話していた。
隣にいた奥さんも終始明るい笑顔だった。

震災から4年以上たっていた。
私が、私なりに楽しんで元気に旅することが一番大切なんだ。
支援なんて思う私の旅は、なんだか上から目線で失礼だったなと気づかされた。

そしてオーナーが
「かほちゃん(宿での私のあだ名)、目標ってあるか?あのオヤジみたいに目標持って生きろ。目標や夢がある人間は、辛いことがあってもあんな風に目を輝かせて生きてられる。」
と、語り掛けてくれた。

オーナーの娘さん(私より10歳くらい年上?)は
「かほちゃん、是非世界を旅してみて。私はワーホリでオーストラリア行ったけど、世界が変わったよ。変わったから、今この小さな田舎の宿を継ごうとしているの。変かもしれないけど、この変な感覚わかってもらえそうな気がする。」
とやさしく声をかけてくれた。

そして思い出した。
アメリカに短期留学した時の何とも言えない感覚を。
翌日、東京に帰る長い長い道のりを一人運転しながら、海外への一人旅を計画し始めた。

久しぶりの海外はやっぱり開放的で刺激的だった。
アラスカで念願のオーロラを観て、
台湾の夜市でたらふくおいしいものを食べ、
南半球でみる満月と南十字星に感動する。
旅というより楽しいだけの旅行を続けていた。

次はどこへ行こうかなと、いつものように休みの長さや気候などいろいろなことを考えていた。
たまたま目にしたサイトで「世界中の旅人が行ってよかった国ランキング」なるものを発見。
1位はカンボジア。
全く興味がなかったけど、日数も気候もちょうどよさそうだし、世界中の人がいいというなら行っておこうかなと、軽い気持ちで出発した。

アンコールワット、名前は知っているけどよく知らなかったので予習してから行った。
でも行って衝撃を受けたのはアンコールワットじゃなかった。
子どもに衝撃を受けた。
人口の1/4~1/3が子ども、平均年齢が24歳、義務教育はなく、子どもの労働は当たり前、ストリートチルドレンも多く、もちろん物乞いをする子もいる。
カンボジアに着いてまず一番に知った現実だった。
旅のメインのアンコールワットは素晴らしいと思った。
だけど、人々の暮らしにばかり目が行き、一緒に旅した人たちとはその感動が分かち合えなかった。
こんな旅は初めてだった。
この国はこれからどうやって成長していくのか?
貧困の状況にあるといえる子どもたちなのに、なぜこんなに瞳が輝いているのだろう?
そんなことばかり考えていた。
だからかな、ふらっと立ち寄ったカンボジアンシルクの小さなお店で、本気で値切れなかった。
売っていた女の子と他愛もない話をすればするほど、彼女の瞳が輝いて希望に満ちた表情になっていったから。

帰国してからも、頭の中はすっきりしない。
どんな感情でも一晩寝れば半分は忘れられる私だけど、今回は全然忘れられない。
1週間たっても、1か月たっても。

このころちょうど仕事で、愛着障害や育て直しなど、子育て支援の難しいケースについて学んでいた。
また、これらの難しいケース以外でも、一般的には健全といわれるような子どもでも抱えることの多い、心理的な親子関係の課題についても学んでいた。
どちらも現在の日本の子どもに関すること。
どちらを学んでも、現在の日本の育児の大きな課題は「親が忙しく自己肯定感の低い子どもが多い」と捉えていて、子育て支援として「自己肯定感の高い子を育てるための保護者支援が重要」としている。
確かに現場ではこの現状がとてもよくわかる。
希望に満ちた輝く瞳を持つ子どもが少ない。
これをカンボジアの子どもたちと比べてしまった。

初めて、楽しいだけの旅行ではなく、社会や世界を見つめる旅をした。
この忘れられない想いをどうにかしたい。
でも、どうすればいいのかわからず、とにかくひたすら勉強した。
子どもの健康について、育児支援について、保育について、赤ちゃんについて。
民間資格も取得した。

保育の現場にいながら、想いを持ち続け、勉強すればするほど、どう行動していけばよいかわからなくなった。
きっと私の通る道には、必ず「子育て」があるのはわかっていた。
でも、その中でどう生きていくのが私の正しい人生なのか。
進路に悩む高校生のようだった。

そんな時出会ったのがPOOLOだった。


POOLOから次世代へ

POOLOに入って、とても個性の強い仲間と出会い、刺激しあえることが、日々の生活を充実させてくれているように感じた。
講義はオンラインが多かったけど、今まで全く出会わなかった世界を学べ、ワクワクドキドキがいつもあった。
恥ずかしながら、SDGs、サスティナブル・ツーリズムなんて言葉は初めて聞いたし、観光学やマーケティングも全くもって初めて学んだ。
正直、まだまだ分からないことや知らないであろうことはとってもたくさんあると思う。
でも、知らなかったことを知れる喜びは、初めての地を旅する時のドキドキに似ているようにも思う。

1年を通して学びや出会いが増えていく中で、特に刺激を受けた言葉があった。

PAPAゼミ
「自分のための自分になるな 世界のための自分になれ」
初めて聞いた時、ドキッとした。
私にはそういう覚悟のような強い思いはあるのかと。
もう一度じっくりと自分と向き合うきっかけになった。
自分が目指す育児支援は世界のためになるのだろうか?と。
でも、ただ漠然と考える日々が続いた。

Blue Planet ちかさん
「一般市民に声を掛けて草の根活動を続けるのは、子どもたちと地球のため」
ハワイキャンプの講義の中で気づかされたのは、専門家の大人だけで世界規模の環境問題をどうにかするのではなく、一般市民の子どもたちにも小さなことからしっかり伝えていくことの大切さ。
子どもが知ればその親も刺激を受ける。
その子どもが大人になったときに真剣に環境問題に取り組むのは当たり前のこととなる。
そのための草の根活動の大切さ。
これは、環境問題だけのことじゃないと思った。
草の根活動は今まで学んできた子育て支援にも通ずるところがあると気づいた。

このころ、チャイルドボディーセラピストを育成するインストラクターの資格を取った。
インストラクターになれた報告を恩師に伝えると、
「いつも誠実に物事に向き合っているあなたなら大丈夫。どんな赤ちゃんも、どんなママもパパもあなたと向き合ってくれるから」
と言われた。
子育て支援は一対一でじっくり相手に向き合う仕事。
つまり、草の根活動だと気づいた。
一人の子どものために、一人の保護者に向き合うことで、その先には明るい世界が広がっているのかもしれない。
私は、突然世界に出て世界中の子どもたちに一度に大きな支援をすることはできない。
でも、何かに悩む親子にそっと寄り添って手を差し伸べることはいくらでもできる。
そう気づいた。

子育ては、食事のとり方を教えること、社会のルールを教えること、人との付き合い方を教えること。
子どもが一人で勝手にできるようになるのもではない。
常に親がお手本となり、生きていく術を教える。
親のお手本は親の親、そしてその親はさらにその親から、先祖代々生きていく術を教えられている。
生きていくことは命を継いでいるだけじゃなく、生きるための術も継いでいる。

子育ては「大変」「難しい」「初めてだからわからない」というけれど、大丈夫。
ベースはすでに自分の先祖から代々受け継いでいるから。
だって、初めて我が子を抱く親は手取り足取り誰かに抱き方を教わらなくても、赤ちゃんをやさしくしっかり強く、抱いてあげることができるでしょ。
それは、親自身が生まれた時にその親にやさしくしっかり強く、抱いてもらっていたから。
ちゃんとその感覚を全身で感じて受け継いでいる。

ただ、現在は思うように継いでいくことができない親が多いのも現実。
そんな親たちの悩みを受け止め、寄り添い、大丈夫だよとやさしく背中を押してあげられる人間になりたい。
私の理想の未来は、親子関係に悩む家庭が減り、虐待もゼロになって、その先に、日本の子どもたちが希望に満ちた輝く瞳になっている世界。
こういう世界ってきっと平和だと思う。

今現在、世界中で猛威を振るっている新型コロナウイルス。
人間の目では見えない、特性もわからない相手との戦いは苦難の連続。
そして、世界中で苦しく辛く悲しい思いをしている人々がたくさんいる。
この悲惨な世界を平和で安心できる世界に戻すには、一人一人の努力しかない。
その努力ができない人が世界にはまだまだたくさんいる。
そんな人たちには一人一人に声をかけ、当事者意識をもって行動してもらうしかない。
それこそ草の根活動であり、世界を救うことにもつながる。
私の働く保育所は世界から見たら米粒にも満たない規模だけど、当事者意識を持てなかった保護者一人一人に声をかけたことで、可能な限りの登園自粛をお願いすることができた。
これが誰かの命を救うことになっているのかもしれない。
タラレバだけれど、今はそう思って日々仕事をしている。

今のこの現状に対して感じる苦しさが、私は東日本大震災の時の苦しみに少し似ているような感じがする。
震災から1年がたとうかという頃、園長からこんなことを言われた。
「未曾有と呼ばれるこの震災をしっかり次の世代に受け継ぎなさい。20代30代のあなたたち世代は、大人として震災自体も、その後の対応もすべて経験している。今の子どもたちやこれから生まれてくる子どもたちに、しっかりと受け継いでいきなさい。将来彼らが困難なことに出会ったときにきっと役に立つから。戦争のこと、原爆のことは実際に経験していないけど、私たちがその悪を知っているのは先人たちが語り継いでくれたおかげよ。」
今の新型コロナウイルス感染症にも同じことが言えると思う。
今の世界をみて感じて考えて、次世代に受け継いでいく。
これは、今を生きる私たちの使命でもあるのかもしれない。

こうやっていろんなことを考えた1年だった。
一度は独立したいとも思った。
でも、今は保育園ナースとして目の前の子どもたち一人一人に向き合って、私なりの草の根活動で、生きることを次世代に受け継いでいこうと思う。
自分さえ意識を持てば世界もみられるし、学びも深められる。
そして、200人の仲間がいる。
まだまだ、保育園ナースとしてやることがいっぱいあるようにも思う。
しばらくは保育園ナースとして生きていく。
なにより、子どもたちが可愛いから♡



☆最後に☆
POOLOを作ってくれたTABIPPOに本当に本当に感謝です。
個性豊かな素敵な仲間に出会えたことは何よりもの宝になりました。
おじいちゃん、おばあちゃんになってもお互いに刺激しあい、世界を見つめて高めあえる関係がずっと続きます様に☆

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