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力を借りなければ

信仰度★★★★☆

とあるメンタリストさんの「差別的発言」で、またしてもインターネットが噴きあがってますね。

それはそれとして、

われわれの日常、とりわけ、インターネットの言論空間は、(あそこまで分かりやすくはなくとも)差別的な言動で溢れていますね。Dさんをここぞとばかりに叩く方が、同じ口で、別方面から、巧みな言葉によって隠蔽された差別思想を垂れ流すこともまた、実際の一端です。

果たして人間は、自分自身の差別感情には無自覚なもので、さまざまなケースを見聞きするにつけ、個々人が自らの差別的感情を完全に取り除くことなどまず無理なのでは?という思いがいたします。

ですから、今回のような明らかなアウトを、嬉々として糾弾する側に回ることに、私個人はあまり積極的な気乗りがしません。どうせ誰かがやりますからね。


じゃあなんで、書いてんのかというと、それを契機に思ったことがあったからです。

平等は人間の力だけで手に入るのか?

先に申した通り、人間は自身の差別感情に無自覚になりがちです。しかし同時に、自分に向けられた差別や、他人の差別的発言にたいしては感度が高く、それが近年ますます鋭敏になってきています。

今日も新しい差別が悪として掘り起こされ、社会的な(善)悪が更新されています。この流れはしばらく加速の一途をたどるでしょう。

それによって、これまで虐げられたり、人知れず苦しんできたりした属性を有する方々が、少しずつマシな暮らしが送れるように社会が動きつつあるのも、ひとつの事実です。

しかし、その行き着く先で人間が真に平等な社会を手に入れるのかというと、私はそれも疑わしいと思います。

「人間の命の価値」一つとっても、それが平等であるという理屈は、ひとりの人間に突き付けるには、事が重すぎると私は思うからです。

例えば極端な話ですが、遠い国の浮浪者と、愛する家族、どちらかの命しか助けられないという状況ならば、申し訳ないけど、私は家族を選ぶだろうし、多くの方がそうするでしょう。

人間それぞれは否応なく、大事な人/ものと、そうでない人/ものという、優先順位をつけてしまうということです。
それは属性によって決まるわけではなく、「遠くの親類より近くの他人」ということもありましょうが、とにかくお互い様そういう序列をつけて暮らしているものだと思います。
レディ・ガガさんにとっては、見知らぬ私の命より、彼女の愛犬の命の方が重いに決まってます。

ですから、人間だけで平等を目指そうとすると、得てして、権利権力の渡し合い、奪い合いに終始することなります。旧態の差別は、現時点では差別と見られない、別の尺度での差別によって、廃されることが多いです。

人間の知恵力だけで人間社会の平等は成し得ないでしょう。もしこの世に人間より高位な存在がないのなら、地上における平等の実現は諦めた方がいいかもわかりません。

しかしながら人の多くは、社会が平等に向かうことを強く望みもします。
根本的に身勝手で差別的に見える人間が、同じ心で平等を望む。この一見自己矛盾といえる事態はなんなのでしょうか?
それは愚かなことなのでしょうか。

私は愚かだとは思いません、むしろそれこそが人間に植え付けられた愛すべき種だと思っております。

平等は神さまのもの

この先は私なりに天理教の教えに基づいて、話を進めたいと思います。

天理教では、人間をつくった神様が、平らかで、明るい暮らしを人間に対して望んでいると信じられています。ひとことで「陽気ぐらし」と言ったりします。

神さまにとって、人間は等しくわが子どもであって、人間の命、魂に、高い低いの線引きはしないそうです。人間は相互に差別的で不平等であったとしても、神さまは人間と同じ次元にはいないので、真に平等な眼差しで人間を見ることがてきます。

適切な例えかわかりませんが、秤で釣り合いを取る時に、秤からいくばくかの距離を置いて目盛りを確かめなければ、正確な釣り合いはわかりません。

仮に人間の平等を量る秤があったとして、その目盛りは、人間自身が確かめるには近すぎる、もしくは大き過ぎるのです。「神さま」でも、「大いなる力」でも、「創造主」でも表現はなんでもいいのですが、とにかくそういった次元の異なる存在による観察や手入れが、人間の平等の実現には不可欠です。

平等という概念は、人間のものでなく、神さまのものであるといってもいいかもしれません。

魂の平等と陽気ぐらしの種

天理教の聖典『おふでさき』には次の一首があります。


高山にくらしているもたにそこに
くらしているもをなしたまひい(第13号 45)

高山とは社会階層の上層部、たにそこ(=谷底)はその反対に社会の下層で暮らす人々のことです。この世に限定していえば、身分序列境遇にいろいろの差異がある。けれども、人間として神さまから分け与えられているのは、一列平等の魂である。そういうお歌だそうです。

『おふでさき』で、魂(たましい、たまひい)という語が登場するのは、1700首以上ある中でこの一首だけだそうですが、それだけに、天理教が「魂」あるいは「霊魂」について言及する時は、頻繁に引用されるおうたです。

天理教は人間の生まれ替わりを信じます。命はこの世限りで、一度終わるのですが、命の乗り物である魂は来世生まれ変わっても引き継がれます。人間は神さまに創造された時の魂を永劫に持ち越して、この世に生まれ替わり続けるとのことです。

そして、神さまが言うには、人間は皆等しく、陽気ぐらしができる魂を本来持っているとのことなのです。まだ花の開いていない種、陽気ぐらしの種といってもいいかもしれません。

これが、人間が心の奥底で平和や平等を望む原動力となっているのです。

いやいや人間の本性なんて身勝手で残酷なものだと思いたくもなりますが、それは端的に言って深掘りが足りないと思います。その地点はまだ底ではない。

ただ、惜しむらくは、その種の育み方というのを私たち人間は真に理解しているわけではないのです。だから、平和や平等を脅かす存在があった時の対処として、その者に石を投げて排除するという行動を選択してしまうのです。

神が連れて通る、人間はそれを聞き分ける

人間の知恵力だけで、陽気ぐらしの実現はできません。そこにはもう一つ「神が連れて通る」という要素が加わらないとならないのです。

神が連れて通る陽気と、めん/\勝手の陽気とある。勝手の陽気は通るに通れん…
明治30年12月11日 おさしづ

人間の知恵力だけで理想を求めると、危ういことになってしまいます。陽気ぐらしに向かうには、神さまの力を借りなければならない。

そして、神さまが何を言っているのかを聞きわけようとし、そこに委ねてみることが、神の子どもである人間にはできるはずなんだと私は信じることにしています。

明治20年という年は天理教徒にとって重大な年です。天保9年の立教以来、50年に渡り人間の姿形をもってこの世に顕現した教祖「おやさま」が、その姿を隠す(=この世の肉体としては存在しなくなる)ということが起こった年だからです。

おやさまが、姿を隠されたその思いをここで語り尽くすことは出来ませんが、その直前の神さまのお言葉にはこのような一節があります。

さぁ/\すっきりろくぢに踏み均らすで。さあ/\扉を開いて/\一列ろくぢ。さあろくぢに踏み出す…(明治20年陰暦正月25日 おさしづ)

ろくぢ
大和地方には「ろっくのぢ」という古い言葉があります。「ろっくの地」「ろくぢ」とは平らな土地、平坦な大地を指します。

明治20年に天理教のおやさまは人間としての姿はなくなりました。当時の高弟の先生方にしてみれば、長年親しみ、信仰を寄せたおやさまに別れ、全く驚愕し、落胆し、悲しみに暮れたに違いありません。

しかしその出来事は同時に、先に引用した言葉通り、世界を平らな地にする門出でもありました。人間世界全体に対して、真に平等をもたらすご宣言でもあったのです。


そういうことを伝え聞いている私としては、やはりそういうご理想をお持ちである神さまの力を借りて、明日の世界が一歩でも良くなることを願って生きねばなと、ここのところの出来事を通じて思うのでした。


※ 前後のおふでさき
せかいぢういちれつわみなきよたいや たにんとゆうわさらにないぞや
このもとをしりたるものハないのでな それが月日のざねんばかりや
高山にくらしているもたにそこに   くらしているもをなしたまひい
それよりもたん/\つかうどふぐわな みな月日よりかしものなるぞ
それしらすみなにんけんの心でわ   なんどたかびくあるとをもふて
月日にハこのしんぢつをせかいぢうへ どふぞしいかりしよちさしたい
これさいかたしかにしよちしたならば むほんのねへわきれてしまうに
『おふでさき』第13号 43-49

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