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不在の鈍痛

信仰度★★★★☆

同じ教会で住み込んでいる一人の婦人さんが、先日倒れて入院しました。今も入院中です。

寡黙な女性で、私ら若手の青年と言葉を交わすことはそれほど多くありません。正直に言って、その方が教会にいることは私にとってあまりに当たり前の風景で、その人の存在を強く感じたり、親しく話し込んだり、ましてやその方の存在に感謝することを、私はしていませんでした。


まことに恥ずかしながら、その方が教会から居なくなってはじめて、その存在を強く感じた、そんな経験をしました。


1.絶対が崩れた日

それは、その方(ミヤガワさん)が病院に運ばれた数日後のことでした。

その日は確かすぐにお風呂を頂こうとして、つとめを終えてすぐに浴場に直行しました。一番風呂です♨️

しかし、そこにはいつも敷いてあるはずの足を拭くための浴室マットがなかったのです。

慌てて、奥の倉庫からマットを取り出して脱衣所の床に敷きました。敷きながら、私はようやく、(あぁ、ミヤガワさん居ないんだなぁ)と感じ入ることになりました。そして、同じ教会に住む方の入院を知りながら、その時までそのことを心に置いていなかった自分を恥じました。


この教会で、脱衣所のマット敷きはミヤガワさんの役目の一つでした。

いや、正確に言うとマットを敷くのは風呂掃除当番の青年の役目です。その日の当番が風呂を掃除し、湯を張る。その時に脱衣所に新しいマットを敷きます。

ところが、その役を当番が時々忘れる。そこでミヤガワさんの登場です。ミヤガワさんは本来、古い風呂マットを回収して洗濯をする役目までなのですが、気を利かせて毎日夕方頃脱衣所に現れて、その時にマットが敷き忘れてあれば、代わりに敷いてくれていたのです。


この世に絶対はないと言いますが、当教会はこの二重のシステムにより、皆が入浴する時間には必ず新しいマットが敷いてあって、毎日新しいマットで足を拭き、脱衣所の床が水びたしにならずに済んでいたのです。


その絶対がその日崩れていたのです。もしかしたらその前の日も、一番に入った誰かが代わりに敷いていたかもしれない。その日の一番風呂が無かったら、私は未だにその絶対が崩れていることを知らなかったかもしれません。


2.気づいてしまった教会内の「仕事」の特性


ところがミヤガワさんが倒れたとき、「あ、これからは代わりにマット敷くのに気を配らねば」と感じた者がいたでしょうか。少なくともその時の私は思いが至らなかった。

浴室マットの一件があって以後、よくよく教会を見渡すと、トイレのタオルが濡れたまま交換されていなかったり、乾いた雑巾が補充されていなかったり、ミヤガワさんが陰でなさっていた心配りの痕跡を、次々私の目は捉えるようになりました。ミヤガワさんが居ないことによって、ようやくです。


そして、少し恐ろしいことを考えてしまいました。

教会からある人が居なくなれば、その人のやっていた「仕事」も諸共消えると。

もちろん、古いタオルがいつまでも放置されるわけでもなく、気付いた誰かが代わりに洗濯します。浴室マットだって、当番が忘れなければ良いのだし、これからは一番風呂の者が敷くというルールにしたって問題ありません。

そう、問題ないのです。その後も教会は回っていく。回らざるを得ないということですね。

それはそうとして、言及せねばならないことは、ミヤガワさんの真実心は本人の身体と共に、今現在、当教会を留守にしているということです。


突き詰めると、誰かがやるから教会の生活は成り立つのです。実態としては今日もマットは洗濯済みです。

ですがそれはあくまで、誰かがミヤガワさんの代わりをしているということであって、これこそが教会での私の役目だと思ってやっている方はまだ居ないと思います。

ミヤガワさんにはまた元気で戻ってきて欲しいと皆思ってますから、それは当然といえば当然であります。

3.教会は携わる人の真実によって成り立っている


少し話があっちこっち行きました。まとめていきたいと思います。

私は今回の一件を通して、教会が何もないところから、人々の真実が寄ることによって成り立っているということを、ほんとにそうだなと実感したのです。

ミヤガワさんの「仕事」は、誰かにどうしてもやれと言われてやっていることではない(多分)。だからミヤガワさんが居なければ、その「仕事」も無くなる。

なぜかといえばその「仕事」は、割り振られた業務ではなく、ミヤガワさんの真実心によって支えられていたからです。


そしてこの姿は、ミヤガワさんに限定された話ではないと思います。

天理教の教会というものが、人々の真実心による動きによって成り立っており、例えばある人が居なくなれば、その真実心に支えられていた活動が消える。

教会というものはそれでもたいてい続いていく、携わる人に応じて形を変えて続いていく。しかし、やはりそこにいる人の真実心そのものは代えがきかないということです。

その人の存在がその教会にとって重要かどうかはあまり関係がないかと思います。「この人がいなければ」「私がいなければ」、たとえそういう存在であっても、皆にとってどれほど重大な役目を担っていたとしても、居なくなればその人の仕事は一度終わるのだし、それでも教会は回っていくことの方が圧倒的に多いです。

繰り返しになりますが、このことは「その方の真実心は代えがきかない」こととは矛盾しないと思います。教会とは(あるいは広く世間の仕事でも?)、そういう側面があると思います。



「真実心」というと絶対的な善の心と思いがちですが、これは文字通り「嘘偽りのない心」であって、逆も然りだと思います。

すなわち、教会に携わる者の心がほこりで満ちるならば、その通りにほこりの心によって成り立つ教会の姿というのが現れてくるのだと思います。

これは、私自身よくよく気をつけたいなと思いますね。


4.教会に居られるというありがたさ

ミヤガワさんの不在。私はマットが敷かれていない姿から、改めてそれをひしひし感じました。私の心に走った鈍い痛みは、しかし、大事なことを教えてくれたと思います。それは、教会に居られることのありがたみです。

ミヤガワさんのことからわが身を振り返って考えるなら、教会に置いてもらっていること、そこで役目があることは、それ自体がとてもとても尊いのです。

最後に、お屋敷での用事について、おやさまのお言葉を引用します。
お屋敷≠教会ではありますが、教会生活において心すべき神言と思われます。

「ナラギクさん(註、当時十八才)、こんな時分には物ほしがる最中であるのに、あんたはまあ、若いのに、神妙に働いて下されますなあ。この屋敷は、用事さえする心なら、何んぼでも用事がありますで。用事さえしていれば、去のと思ても去なれぬ屋敷。せいだい働いて置きなされや。先になったら、難儀しようと思たとて難儀出来んのやで。今、しっかり働いて置きなされや。」
『天理教教祖伝逸話篇』三七「神妙に働いて下されますなあ」より引用


ここまでお付き合いくださりありがとうございました。


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