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毎日がエブリデイの語感の良さ

カクテルパーティ効果というけれど、そんなおしゃれなパーティしたことないのでいつかやってみたいよね。ビール無し、ハイボール無し、純度100%のカクテルパーティ。

多くの音の中から、自分が必要としている情報を無意識で選択できるという脳の動きを指す、「カクテルパーティ効果」は、認知心理学でも有名な言葉ですが、これは確かにそうかもなと最近思いました。


教区の青年会に顔を出した時のことです。

同じ教区の青年仲間との雑談の中で、

「この前追突されてさぁ」

とか

「俺もこの前車ぶつけられてー」

とか

どういうわけか、その場に居合わせたメンツの間で、ここ最近交通事故に遭った話題がたくさん出ました。

その前日、別の場でも知り合いの事故の話を聞いていましたので、私の側から言えば、なんだか事故の話ばっかり耳に入ってくるなぁと、ちょっぴりヤな感じというか、不吉さの影が胸に小さく差したのでした。

ところで、

今年に入ってからウチの教会では、年祭活動の一つとして「日参とひのきしんの励行」を掲げていて(日参とは毎日お参りに行くことです)、教会住まいの私らにとっての日参は、すなわち親教会への参拝じゃ!

てなことで、毎日家族の誰かが小銭を握りしめて親教会に詣でて、日々のお礼づとめをし、ちまっとひのきしんして帰るということを続けています。

その日は私がその役目ということで、教区の青年会が解散してから、帰り道に親教会に参拝に寄りました。(交通事故の話はすっかり心から消えてました)

おつとめを終え、青年さんにちょっかいを出し、一つひのきしんをと、参拝者駐車場の片隅で草むしりを始めたところ、一台の車が駐車場に停まりました。中から出てきたのは、親教会が契約している自動車保険会社の方でした。忘れもしないご尊顔です。

月末の集金に来ていたのでしょう。こんにちはーとお互いに挨拶をして、その方はスタスタと事務所に続く階段を昇っていきました。

草むしりを再開した私ですが、その保険屋さんの顔を見て、一気にあの日のことを思い出していました。


数年前、親教会で青年づとめをしていた時分、私は教会の車両を運転して交通事故を起こしてしまいました。自爆だったので、相手もなく、自分もケガ一つなかったのですが、状況からすれば無傷なのが不思議なくらいでした。(車は結局廃車になりました)

事故当時はやっちゃたことの反省と後悔で、車も私の心もべっこり凹んでホントに辛かったのですが、その保険屋さんが(そういうサービスだったのかもですが)、現場に駆けつけて下さって、いろいろと対応して下さり、その場を収めてくれたのでした。あの時は本当にその保険屋さんの優しい感じに助けられました。


前日からさんざん事故の話を聞いていて、最後に見たのが、昔の事故の記憶を呼び覚ます保険屋さんの顔って、、とも思ったのですが、はてさて考えてみると、あの日は私が散々な目に遭った日でもあり、命の危ない所を助けてもらった幸運な日でもあったのでした。


そう思うと、そんな日もあったけれど、お陰で今元気で生きてんなぁという素朴な喜びがだんだん湧いてきて、それまで聞かされていた事故の話も、不吉というよりは、「お陰で元気」を思い出させてくれるために、神さまが自分の耳に入れてくれたような気がしました。

こうなってくるとどんどんウキウキしてきます。草を抜く手の動きもペースアップしてきました。


その時、私の背中に声をかける方がありました。

「すみません、○○会社の者で、この教会のキタヤマ先生にお伺いしたいのですが、ちょっと初めてで、どこに行けばよろしいですか?」

敷地が広いとどこから入ったらいいか分かんないですよね。まぁどうせOA機器の営業の方なのでしょうが、もう私の心は喜びで満ちていますから、
勇み心のままに、どうぞどうぞと事務所まで同行して差し上げました。


日参に寄ったことで、用事を一つできたこと、誰かが助けを必要としていた時に自分がそこに居れたこと、そして、かつて自分が助けられたことを思い出せた喜びを嚙み締め、親教会を後にしました。


帰り道、私は、10数年の間どんな中も毎日お屋敷に参っては、おやさまや中山家の方に、何か用事はございませんかと通い続けた、飯降伊蔵先生を思い起こしていました。

偉大なる先人にはまだまだほど遠い。

ですが、助けられた恩を忘れず、人に笑われようとも、親元に通っては些事なりとも仰せつかって帰る、その勤めを長く続けられた伊蔵先生の原動力、心の奥底から無限に湧き出る喜び、その片鱗を、今日の私は確かに感じていた、そう思います。

人間一人をこういう気持ちにさせてくれるんだから、その気になれば毎日詣でることができる教会があるのは、やっぱり嬉しいことなんですよ。

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