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大寒 * LDK+N のNとは何の事

神職のふるぽんが、クイックルワイパーを高校3年生の巫女に手渡し、「これ納戸なんどになおしてきて」と頼んだ。なおす、というのは、しまうという意味の関西弁である。

巫女はクイックルワイパーを手にしたままうろうろしている。ふるぽんは「この建物の中で納戸って言ったらここしかないやん」と、納戸の場所を教える。すると巫女は「なるほどー。ナンドって英語ですか?」と聞いた。

驚いたふるぽんが私のところに飛んできてこの話をしたので、そこにいた別の巫女2人(大学1回生)に、「納戸って知ってるよね?」と聞いてみると、2人とも「いいえ〜」と笑いながら首を横に振る。「え? 嘘でしょ?」「嘘じゃないです〜」「またまたぁ」「いやほんまに何ですかそれ?」という問答を繰り返した末、彼女たちがボケをかましているのではなく本当に納戸という概念そのものを知らないのだと悟った私は「物置部屋のことだよ、納めるに戸って書いて、納戸って言うんだよ」と説明した。巫女たちは「へええ」と感心して、神社だからそういう古い言葉を使わはるんですねえ、と、うれしそうにしている。「納戸」は平安時代の宮中の「納殿」からきているらしいので、たしかに古い言葉ではある。

しかし「納戸」は現代でもマンションの間取り図などに表記されている言葉で、建築基準法によって居室と表示できない部屋(床面積の7分の1以上の彩光が取れない部屋)を、「納戸」またはその頭文字をとって「N」と表記することが多いらしい。

たとえば、ネット広告やチラシなどで物件の間取り図に「2LDK+N」と書かれている場合、居室に加えて納戸のスペースがあるということになります。

長谷工コーポレーションのHPより

「2LDK+N 」のNは、NANDOのN。
だとすると、ナンドって英語ですかと聞いた巫女の感覚も、素っ頓狂とは言えない。

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今年は、「十二支ってなんですか?」というシンプルな質問を投げてきた新人の巫女もいた。

「ええと、年には動物がひとつ、あてがわれていて、それが12年で一巡して、令和5年はうさぎ年なんだけどね・・・ていうか、このうさぎの置物とか土鈴とか絵馬、なんだと思ってたん?」と私が言うと、巫女は「かわいいから置いてると思ってました」と笑顔で答える。

そっか。たしかにうさぎかわいいよね、ちなみにこれぜんぶ、私のセレクトなんだよね。考えてみたら、学校では十二支を教えたりしないし、生年月日も西暦で言うのが普通だったら、干支や十二支という概念を知らないという可能性もあるよね。

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正月の賑わう授与所で、年配の参拝客から「炊事場のお札ください」と言われ、「すいじば?」と固まっている巫女がいた。私は背後から「台所のことだよ」とささやいてアシスト。台所には台所の神様がいて、そのお札というのがあることは巫女に説明してあったが、巫女は「すいじば」という初耳の言葉と「台所」とが繋がらなかったのである。

その日の終わり、他の大学生に「みんな、炊事場ってわかるよね?」と運動部の部長みたいに聞くと、みんながキョトンとしたので「炊事は炊く事って書いて、料理のことだよ、だから炊事場はお料理する場所のことで、つまり台所のことだよ」と、説明すると、みんな素直に「ああ、そうなんですねえ」と感心するのだった。

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さて、私はNすなわち納戸に入り、奥に立てかけてある古い箏を抱えて出る。節分祭で弾くためだ。

この箏は私のマザー・イン・ローのマザー・イン・ロー(先先代の嫁)が、嫁入り道具として持ってきた。ごく普通のお箏で、長らく神社の倉庫の屋根裏に放置されていたが、私が嫁にきて倉庫を探検している時に見つけ、龍笛を教わっていた雅楽の先生のところに持ってゆき、雅楽用の絃を雅楽の音階で張ってもらった。先生は鹿の角と和紙を使って雅楽用の爪を手作りしてくれて、雅楽独特の弾き方も教えてくれた。いわゆるお稽古用の箏だったから物は良くも悪くもないが、長い年月によって木が良い感じに乾き、音にも見た目にも枯れた味がある。さらに先生に教わった通り、椿の実をすりつぶしてその椿油を染み込ませた手ぬぐいで胴を拭いてあげると、木肌がしっとりとして、音にまでつやが出てくる。

枯れとつやの両立、それは重ねた年月にしか成し得ない領域であると同時に、今この瞬間にしか現れない魅力である。そのせいか、龍笛を吹く時には恋にも似たときめきを感じるが、この箏をつまびく時にはじんわりとsisterhood(女性間の連帯)を感じる。
 
とかなんとか書くと、まるで自分が箏の名手かのようだが、龍笛にくらべて箏はびっくりするほど上達せず、もっぱら雰囲気だけで演奏している。それでも憧れからか雰囲気だけはめちゃくちゃ上手に再現できるので、雅楽を詳しく知らないほとんどの人は「雅やなぁ」「素敵やわぁ」と言ってくれる。

古くからの友人で、年末年始に神社を手伝いに来てくれる漫画家のロビン西氏は、そういう私のことを「七人の侍」の菊千代のようだと言う。七人の侍を知らない人のために説明すると、それは黒澤明監督の映画で、文字通り七人の侍が農民に雇われて活躍するお話である。三船敏郎演じる菊千代は七人の侍のうちの1人なのだが、実は武士になりたくて村を飛び出した農民の青年だ。彼が農民の隠し持っていた刀や鎧を集めて侍たちのところに持ってきたシーンと、私が倉庫の屋根裏で箏を見つけ、うはうはして雅楽の先生のところに持って行ったくだりとが、どうも重なるらしい。

菊千代は侍の仲間に加えてもらい、浅はかゆえに侍たちに迷惑をかけながらも、一方で農民の出ならではの発案で手柄も立てる。最後は鉄砲で打たれて死んでしまうが、菊千代というキャラクターは七人の侍においてはほとんど主役と言ってもいいし、世界のミフネが演じているのだから、たとえられてまんざらでもない。でもロビンさんが言いたいのはおそらくそういうことではなく、埼玉の野原を駆け回って育った私が、雅な世界に憧れていっちょ前に神事で龍笛を吹いたり箏を爪弾いたりして調子に乗っている様が面白いということだろう。ご祭神のスサノオさんは、いわば調子乗りの元祖みたいなものだから、きっと大目に見てくれるだろうと思っているが、いつか本格的に叱られる時がくるのかもしれない。だとしても、それまでは調子に乗って楽を鳴らしていようと思う。私は輪廻転生を信じているが、この人生のターンは一度きりで、こんな特殊なパターンはもう二度と回ってこない気がするのだ。


二十四節気 大寒だいかん 新暦1月20日頃

*寒天(かんてん)
大寒の時期の寒い空のことを、そのまま直球で言い表したのが寒天。
寒いのはきらいだが、この頃の澄んで身が引き締まるような朝の空はきらいではない。
食べ物の寒天は、神饌(神様へのお供えもの)にも使われて、そのカテゴリーは「海のもの」。なぜなら煮込んだ天草(海藻の一種)を寒気に晒して凍らせ天日で溶かすという作業を繰り返したものだから。お供え用には赤や緑で着色された寒天もあるけれど、私は無着色の透明が気に入っている。












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