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雨水 * 荒くたい雹が思い出を刺激する頃

二月の終わり、竹箒で落ち葉を掃いているとひょうが降ってきた。それまで見たことのないほど激しい雹で、屋根や窓に当たってバラバラバラバラと大きな音を立てている。私は小走りで神楽殿の軒下に逃げながら「僧侶の方がもっと真剣に逃げているだろう」と考える。坊主頭に当たれば怪我をしそうなほど大きな雹だったからである。

夕方、学校から帰宅した息子に聞いてみると「雹が降った時は渡り廊下に逃げた」と言う。彼は一目見て野球やってるなと分かるスキンヘッドに近い丸刈りなので、空から降ってくるものに対しては弱い。「雪もえぐいけど雹はバリえぐい」そうである。大阪では自発的に丸刈りにしていても髪型としてオシャレ坊主にしていても、みんなまとめてハゲと呼ばれる。女子からは「あいつおもろいけどハゲやしな」と言われる。そんな彼らが一斉に軒下に避難する様子を、雹を降らせた天の神様は面白がって見ていたんじゃないかな。

翌日、お参りの方に「昨日の雹はすごかったですね」と話しかけると、ほんまにねえ、八十年生きてきてあんなん初めてですわ、雹いうたらこんな金平糖みたいなんどっしゃろ、でも今のんはなんや荒くたいねぇ。とおっしゃった。その「荒くたい」という言葉で、私は一年前に卒業した巫女Kのことを思い出した。

授与所を閉める時間帯になると、Kが干支の縁起物が載っている折敷おしきをかかえて「桃虚さん、コイツらもう撤収していいですか」と言ってくる。
「コイツらって言わない」と私が目力全開で言うと、Kは「さーせん」と謝ったすぐあとに、
「今日はクッソ寒いのにこれからまたバイトっすよ、晩12時まで」
と言うので
「巫女装束を着ているときはクソって言わない」とたしなめる。

Kは背も高く長い黒髪は艶々としており、装束を着るとまるで少女マンガの登場人物のようで、それだけに口の悪さが目立つのだった。しかし彼女は神事に関わる上でもっとも肝心かなめとなる素質を最初から持っていた。それは神前奉仕におけるKの立ち姿を見れば一目で分かった。具体的にどんなんかと聞かれると言葉にするのがむずかしいが、Kが神前に立つ時には普段と全く違いまっすぐな一本の柱に見えるのだ。そしていさぎよく全開にしたひたいは光を放っているように見えた。もし私が神で、天から下界を見ているとしたら、彼女の額に降りよっかな、と思うだろう。そんな立ち姿である。

さて、私が長い髪を切ってショートにした時、Kが何にもコメントしなかったので、「なんか言えよぉ」と私が言うと、Kは「いやぁ、よううつるな〜思って見てたんスよ」と男子校の後輩のように言った。よううつる、というのは関西弁でよく映る、つまり良く似合っている、という意味であるが、「よく似合う」と言われるよりも「よう映る」と言われるほうが、どことなくみやびな感じを受けるのは、私が東の人間だからだろうか。Kは祖父母と同居していたので、ふとした拍子にこうした味わい深い言葉を発した。普段は荒くたい言葉づかいのKが無意識に挟んでくるはんなりとした西の言葉を聞くと、お弁当のなかに大好きな麩を見つけた時のように嬉しい気持ちになった。

***

そんなKの同学年に、正反対のキャラクターの巫女Fがいた。Fはとにかく「ど」がつくほどの天然で、最初のうちは謎の質問ばかり投げてきて私を困惑させた。

ある日、団体客のご朱印帖に筆文字を書いているときにFが
「桃虚さん」と話しかけてきたので、私は筆に意識を集中したまま
「何」と返すと
「『今日は暑いですね』、とかコメントを書いてるんですか」と聞くので
「それはない。奉拝だよ」と答えたが、その会話で脱力したために却って良い字が書けたことがあった。

当時一緒に行事を進めていた近所の商店会長と喧嘩して私がカリカリしている時も、Fは一向に気にせず「桃虚さん」と話しかけてきた。
「何!」とややキレ気味で答えると
「今日の桃虚さん、かわいいです」
と言うので、私はカリカリするのをやめた。

車のお祓いについて説明をしていると、「桃虚さん。車にもお鈴を振ってあげるんですか」とFがまた謎の質問をしてきたので、私は「しないよ。車は人じゃないからね。お鈴の音は、人のたましいを振わせて、きれいにしたり元気にしたりするものだから」と答えたが、しばらくしてから、待てよ、と思った。物にも百年経つとたましいが宿り意識がめばえるという発想が昔の日本にはあったではないか。百年経ったらこの車はどこか南の国に売られ、その辺の茂みに打ち捨てられているかもしれない。そこでふと意識を持った車がまず何を思う。あああの時の神職は自分を人間扱いして鈴を振ってくれたっけなあ! と思い出してくれたら、「御伽草子」の付喪神つくもがみのように自分を捨てた人間にひどい仕返しすることもないだろう。ということは百年後の人類のために車にもお鈴を振ってあげた方がいいのではないか。という気持ちになった。

こうしてお鈴というよりFこそが人の心をきれいにして元気にする存在だということに気づくに至ったが、Fがただの天然ではなく、実は笑いの才能に長けており、神職の口癖や動きを上手に再現しては他の巫女たちをお腹が痛くなるくらい笑わせていることは、Fが入ってから3年目くらいにやっと知ったのであった。

Fは、正月の混み合う授与所でも、どんな場面でも、自分を見失うことは無かった。たくさん並んでいる干支の縁起物を前に迷っている参拝客に、「どの子になさいますか? この子になさいますか? かしこまりました、かわいいですよね」と応対し、縁起物を大事に大事に紙袋に入れ、丁寧にお渡しする。なかには「ぜんぶ同じちゃうんか」と、真顔で聞いてくる参拝客もいたが、Fはまったく動じずに「ひとつひとつ、ちがう子なんです」とほほえんだ。彼女のほほえみは本物だから、誰もが得心とくしんして帰っていくのだった。

たとえば、同じ姿かたちのコップでも、こっちにおいてあるコップと、あっちにおいてあるコップは、同じではない。この世に同じものなど、なにひとつない。Fと一緒にいると、そんな当たり前のことを確認して、世の中すべてのことが尊く感じられた。Fに自分のモノマネをされると、なんだか嬉しかった。

いま、KもFも社会人として一般企業で働いている。16歳から22歳までの多感な6年間、巫女という役目を通して自分の霊性を磨いてきたから、社会に揉まれて大人の事情を飲み込むようになったとしても、彼女たちの真の人間的魅力は変わらないだろう。私は作法を教えたりはしたが、実はその百倍くらい彼女たちから大事なことを教わった。

かつてのFのように新人の巫女が謎の質問をしてくるたびに、私のたましいの一部分は滅びそして新しく生まれる。まさに爆誕する感じである。その繰り返しでちょっとずつちょっとずつ何かに近づいている気がする。


二十四節気 雨水うすい 新暦2月19日頃

*下萌え(したもえ)
早春に、草が土を押し上げて、下から萌え出るさま。
和菓子の名前としても多く使われる。
人間の感情としての「萌える」は、いつから使われ出したのだろう?
すっかり定着して、もう「萌える」意外にぴたっとくることばがないほどだ。


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