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公と私のデザイン

(2017.9/27にブログに書いたものを加筆修正)

文脈を抜きにしてデザインの良し悪しは評価できない。
例えば個人で使うもの、不特定多数の人が接する公共の場で使うもの、特定の志向の人を対象とした空間などで使うものは、それぞれデザインに求められることが違い、「良いデザイン」の条件も異なる。


これは人気テレビドラマ「孤独のグルメ」第3シーズン1話「北区赤羽のほろほろ鳥とうな丼」において、石倉三郎さん演じる男性客がテーブルそなえつけの醤油刺しを使おうとしたが醤油が出ず、ぶんぶん振って2-3滴出たあたりでお茶を濁すシーンである。

実はこの醤油刺し、上部にボタンがありこれを押すことで適量注げる製品だったのだ。同様のしかけのものは複数のメーカーから販売されている。注ぐ量をコントロールしやすく、減塩につながるといいうことで健康志向のユーザに評価されているのだろう。だが「上にボタンがあってそれを押すと注げる」ということがわからなければ当然ながら使えない。特にこの製品は一見ボタンとわかりにくい外見のため、それと知らない石倉さんは使えなかったのだ。

(その直後ゴローちゃんは普通にボタンを押して注いでいましたが)

家庭であれば一度覚えれば済む話なので全く問題はないのだが、飲食店のように不特定多数の人が使う場ではこれはふさわしいデザインとは言えない。ボタンに見えないボタンは押されない。難しく言うとギブソンの唱えたアフォーダンスとノーマンの”知覚されたアフォーダンス”にずれが生じている状態である。(この話は長くなるのでまた別記事で)

この手のボタン式の製品では販売されている時点で「押す」などと大きなシールが貼ってあることが多いのだが、それはそれで言語に依存するという点で公共の場のデザインとしてはやや疑問が残る。

めっちゃ文字依存

中華料理店のラー油入れ二態。
左のものは金属のキャップを上に引き抜くと注ぎ口があらわれるのだが、黒い部分を回すと中ぶたから外れ、ラー油を大量投入することになる。右のものは、まあわかりそうなものだが、うっかりキャップを持つと本体が落ちて中身をぶちまけかねない。よく見ると透明キャップの下につばがついており、設計者の意図としてはその下を持って欲しいということだろう。またキャップを透明にすることで使い方を示唆しているのだろうが、ふらっとラーメン屋に入った客(時には酔客であろう)にはそれは伝わらなかったようだ。どちらの店も、これらのラベルが貼られることになるまで大惨事が繰り返されたことが想像される。

知らないと一見どう使うかわかりにくいことと、キャップを持たれて落とされるリスクがあるため、この手のすっきりと本体と同じ直径のキャップがついた調味料入れは飲食店にはあまり向いていないように思う。

本体より小さくするなどキャップを持たれなくする、スタッフ以外は中蓋が外せない(外しにくい)仕掛け、そもそもキャップ不要で清潔を保つ構造、さらには清掃性、継ぎ足しやすさなど、家庭用とは異なる飲食店向け容器のアプローチはいろいろ考えられる。

話は変わり、これは駅のトイレの男性用小便器横に設置されているフックである。このフック自体はシンプルで無駄のない造形であるが、誰がどのタイミングでした判断なのか「これは傘をかけるものなんですよ」という説明プレートが添えられている。便器が10あればその横にこれが10セットあり、煩雑な印象を受ける。フック自体が「見るからにもういかにもフックっぽいフック」という外観であればプレートを貼るぶんのコストは必要なく、結果的にトイレ全体としてよりすっきり美しくなったかもしれない。

もっとも、駅のサインに関しては過剰防衛ではないかと思われる案件もしばしば見うけられるので、何をやっても説明を貼られた可能性は否めない。

新宿にできたビルのトイレに、ダイソンのハンドドライヤー一体型水栓が設置されていた。実際に使い方がわからないという問い合わせがあったのか管理者が先回りしたのか、アクリル板には挟まった使い方説明パネルが添えられている。

ツイッターにはこの水栓にでかでかと「水が出ます」「風が出ます」とラベルが貼られているという、ダイソンさんが見たら泣きそうな画像も投稿されていた。「デザインの敗北」などと揶揄される、設計者と現場の運用の齟齬の例だ。

「慣れれば便利」はつまり「知らなければ使えない」なので、公共の場所に採用するべきではない。その場に不適切なデザインを採用すると、醤油がちょっとしかかけられなかったりラー油をこぼしたり手が洗いたいだけなのに説明書きを読まさせられたりとユーザの負担と不満が増えるばかりでなく、何度も説明したりラー油を拭いたり謝ったりラー油を注ぎ足したりラベルを貼ったりパネルを用意したりと運用側のコストを上げることにもなる。

2023年12月、ツイッター上で「おしゃれな外観の消火器」について賛否が巻き起こっていた。「これなら家に置ける」との評価に対し「消火器が赤いのには意味がある」等と否定する意見が見られた。これも公共と私的空間のデザインを混同していることで生まれた議論であって、家庭用であれば家族が消火器と認識できていればよいので(通りすがりに我が家のキッチンで消火器を探す人はいない)全く問題はない。

このように個人で使うものと公共の場で使うものではデザインに求められる要素が異なるわけだが、多数の人が接する場では必ずわかりやすさが必要なのかというと、特定の志向の人を対象とした空間などではまた少し状況が異なる。

「特定の志向の人を対象とした空間」というのはたとえば、一見障壁に見える要素がスノッブ心をくすぐり逆にユーザの満足に繋がるような例だ。
すなわち「抹茶クリームフラペチーノ抹茶パウダー多めバニラシロップ抜き」とか「ヤサイマシマシニンニクハンブンアブラカラメカラアゲベツザラ」とか「ベンティアドショットヘーゼルナッツバニラアーモンドキャラメルエキストラホイップキャラメルソースモカソースランバチップチョコレートクリームフラペチーノ」等の呪文が飛び交う空間である。このような場は「そういうものだとわかって来ている」顧客で成立しているため一見(いちげん)客へのわかりさすさは一般に優先されない。
また隠れ家を売りにする会員制のような店であれば、入り口を誰にでもわかりやすくユニバーサルにデザインするのは適切とはいえないだろう。

このほかにもいろいろな状況があるし、状況次第で適切なデザインは異なる。置かれる文脈を抜きにしてデザインの良し悪しは計れないのだ。

「適切なデザイン」はずっと僕が重要だと思っているキーワードでもある。このあたりはさらに掘り下げていきたい。

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