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どうする関ケ原、最終回:小早川の軍に追いつく毛利軍?(大河ドラマ連動エッセイ)

 大河ドラマ「どうする家康」に連動して、「どうする関ヶ原」を書いてみました。今回は最終回、美濃、伊勢、近江をめぐる東西両軍の動き、大津城の裏切りと小早川秀秋軍との関係、などを描きたいと思います。
 大坂三奉行による反家康の西軍挙兵、家康による会津攻め中止、など前回のお話は、以下をクリックしてくださいね。

(石田三成が美濃進出) 
 8月10日、石田三成と小西行長軍が美濃大垣城に入ります(兵1万5千)。犬山城にも兵が入ります。大垣、岐阜、犬山が西軍の最前線となります。
 戦略地理を考えると、西軍にとって、大垣城というのは、重要拠点といえるでしょう。石田三成は、近江佐和山を領しており、ここは、中山道と北国街道の交差する要衝でした。その東には不破の関(関ヶ原)、美濃となります。尾張は東軍の福島正則領でしたが、岐阜の織田秀信、犬山の石川貞清は西軍につきました。西軍としては、三成領より、物資を運びやすいという利点があります。また、美濃と尾張の国境には木曽川が流れており、美濃を防衛拠点とする考えであったようです。
 ただ、前回述べましたとおり、三成は7月以前は隠退状態でしたので、毛利輝元や増田長盛ら三奉行と綿密な打ち合わせができていませんでした。7月10日ころの挙兵から大垣城入城まで、一か月かかっています。この間、三成は、京都の豊国神社に参詣、伏見城攻撃に参加、大坂城に行ったりとして過ごしています。
 西軍としては、美濃、尾張方面に早期に兵力を集中させることが理想ですが、豊臣政権の官軍の立場ですので、敵、謀反人を討伐しなければなりません。伊勢方面の攻略が優先となります。
 心配なのは、東海道を西上する福島正則ら豊臣恩顧大名の軍(約3万8千、一部伊勢へ分離)ですが、西軍には、福島らは「謀反人家康から離れて、領国に帰還する」、つまり武装解除するという情報があったようです。三成は、信濃上田の真田昌幸への手紙で、「尾張でその意思を確かめる」と述べています。これも東軍の情報操作ですが、結果から述べる形になりますが、西軍の慢心を増長させ、戦闘意欲をそぐ効果があったのではないでしょうか。

(福島正則ら東軍先遣軍が尾張到着)
 10日、東軍の藤堂高虎軍が、尾張熱田に到着します。
 この時点で、西軍の毛利秀元、長束正家らの軍(約2万)は、近江から伊勢に入りましたが、動きは停滞していました。後から来る長曾我部盛親の軍(約6千)勢と合流しようとしたのでしょうか。
 東軍の徳川家康は、江戸に滞在しています。嫡男秀忠は下野宇都宮に在陣しています。
 会津の上杉景勝(兵2万5千)は、西軍が挙兵した情報(7月17日)、東軍による会津攻めが中止された情報(7月25日)を、4~5日後に得ています。景勝は、西軍の情報を真田昌幸(信濃上田)から上野沼田(真田信幸領)経由で得ていましたが、やがてこのルートが遮断されると、西軍からの情報が入らなくなりました。西軍の情報を失った景勝は、しばらく会津を動かなくなります。
 14日、東軍が、福島正則ら尾張清洲城に集結します(兵3万5千)。
西軍の美濃方面軍は、前述のとおり、大垣城、岐阜城、犬山城に分散した形で、兵力の集中運用が必要なところですが、そうした指揮権は三成も小西行長も持っていませんでした。幸い、福島らは、しばらく家康軍の到着を待っており、清洲を動きませんでした。
 14日、伊達政宗(兵2万)は、陸奥白石城から仙台北目城へ戻ります。家康の会津征伐中止を受け、伊達も兵を引きます。

(東軍先遣軍が伊勢に帰城)
 8月中旬、上杉討伐から引き返してきていた東軍の富田信高が伊勢安濃津城(兵1700)へ、古田重勝が松坂城へ、稲葉道通が田丸城へ、渥美半島から海路、伊勢へ渡り、それぞれ居城へ帰城します。ここで、西軍は、東軍の帰参軍の入城を許してしまいます。この伊勢の三大名の帰城、福島らの軍との分離は、家康の判断、指示によるものでした。西軍の伊勢侵攻軍の先鋒であった、長束正家(兵1500)は、これらの軍を家康本軍と見誤り、味方の毛利秀元軍がいる近江国境まで退却します。伊勢侵攻軍は、進軍が遅いうえ、退却までしています。何をしているのでしょうか。
 17日、伊勢へ向かうはずであった西軍の小早川秀秋軍(兵1万5千)が進軍をやめ、近江高宮に留まります。秀秋の家老が、黒田長政の調略を受けていたため、とみられます。秀秋の行動は論外ですが、西軍の誰も、秀秋を罰することができませんでした。秀秋の官位は従三位権中納言であり、北政所の甥、秀吉の元養子でその地位は、五大老の輝元、宇喜多秀家と同格並みでした。
 17日、島津義弘軍が美濃垂井に着陣します。義弘軍は兵が1000ほどしかおらず、再三、領国に兵の派遣を要請しますが、基本、上方と関わりたくない兄の義久は兵を派遣しませんでした。

 18日、山形の最上義光が、上杉景勝に降伏します。景勝と伊達政宗が和睦したという情報を得たためとされます。景勝の南進の条件が整います。
 しかし、人質を出さなかったため、上杉軍は、結果として最上を攻撃することになります。

 19日、家康の使者が、清洲に到着し、福島正則らに岐阜城攻めを促しました。福島らは家康軍の到着を待っていましたが、家康が江戸を発ったという知らせがありません。福島らは、家康が西上しないことに不満を持っていましたが、家康の使者は、「家康はあなたがたを信用していない。信用してもらいたかったら、敵を倒してからに」と伝えました。結果、福島らは、美濃へ進軍します。
 ※福島らは、福島正則(兵6500)、田中吉政(兵3000)、池田輝政(4500)、堀尾忠氏、山内一豊(兵2000)、中村一栄(兵4300)、浅野幸長(兵6500)、京極高知、細川忠興(兵5100)、筒井定次(兵2500)、生駒一正(兵1800)、蜂須賀至鎮、加藤嘉明(兵3000)、藤堂高虎(兵2500)、黒田長政(兵5400)、寺沢広高(兵2400)などの陣容でした。

 上で、西軍の伊勢侵攻軍は、進軍が遅いと書きましたが、この時点で、伊勢の攻略が進んでいれば、尾張の福島軍らは(一部しか)北上できなかった可能性があります。美濃と伊勢で、尾張を挟み撃ちにする配置となっていたからです。結果として、福島らは、岐阜城を落とし、一気に大垣城付近まで進出するわけですから、伊勢攻略の遅滞は、戦略上、大きな失敗といえるでしょう。

(大垣城周辺に東軍先遣軍が進出)
 23日、福島、池田輝政軍らによって岐阜城は落城します。黒田長政らの軍は、長良川の合渡の渡しを守っていた石田三成軍を破り、一気に大垣城北の岡山へ進軍します。
 東軍の岐阜城攻略と美濃岡山への進軍(兵約4万)は、西軍の美濃戦線を打ち砕くものでした。大垣城は平地に位置する平城で、守りはそれほど固くなく、裸同然となります。大垣城とその周辺には、三成(兵6000)、小西行長(兵6000)、島津義弘、福原長堯ら九州勢が集結していました(兵約1万5千)。大垣城の三成軍は兵力も少なく、福島らの軍に対抗することができませんでした。また、最高指揮官である毛利輝元の指示がないまま、戦端を開くことができませんでした。三成は、大坂城の毛利輝元に、美濃への出陣を促す手紙を出します。
 23日から25日にかけて、西軍の毛利秀元、吉川広家、安国寺恵瓊、長曾我部盛親、長束正家らの軍(約3万)が、東軍側の伊勢の城を攻略します。
 このころ、宇喜多秀家軍が大垣城に入ります(兵1万7千)。三成としては、大老の宇喜多秀家の到着をもって、兵力が3万を超え、岡山に陣取る福島ら東軍先遣軍に対抗できる態勢となります。秀家は、東軍先遣軍への夜襲を提案したとされますが、三成はこれを拒んだとされます。三成は、西軍の集結を待っていたようですが、結果から言えば、この後、美濃入りする西軍は、大谷吉継を除き、関ヶ原の戦いで戦力になりませんでした。

(徳川家康、秀忠軍、それぞれ西へ)
 8月24日、徳川秀忠軍(兵3万8千)が宇都宮を出発し、中山道を信濃上田の真田昌幸討伐に向かいます。武将は、榊原康政、大久保忠隣、本多正信らでした
 宇都宮は、結城秀康、蒲生秀行らが守りますが、対上杉の備えとしては、少ないです。家康は、上杉は攻めてこない、という情報があったのでしょうか。上に書いた、上杉と最上の人質交渉難航の情報があったのかもしれません。江戸の家康としては、江戸の自分より、宇都宮の秀忠を先に、西上させました。真田攻略の日数も計算してのことと考えます。仮に、上杉が南下したら、秀忠軍は取って返し、家康軍とで、上杉軍を挟撃する考えであったでしょう。
 25日、上杉景勝は、西軍諸将に「伊達、最上が敵対しているので、これを従わせる。家康が上洛したら、佐竹とともに関東へ攻め入る」との手紙を送ります。
 26日、東軍の池田輝政らの軍が、美濃赤坂に着陣します。
 26日、奉行の増田長盛が、伊勢攻略が終わった西軍諸将に、美濃大垣行きを求める手紙を出します。これは、福島正則らの美濃岡山着陣を受けてのことでした。西軍の総指揮は、毛利輝元であり、これを大坂にいる奉行の増田が手配するという構造でした。
 27日、岐阜城陥落の情報が江戸の家康に届きます。福島ら先遣軍には、「家康の到着を待つように、独断で戦端を開かないように」との手紙を送ります。
 28日、家康は、秀忠軍に対し、9月10日に美濃で合流するよう指示する手紙を送ります。家康は、自軍を西上させる決断をしました。上杉の動向には警戒せざるを得ませんが、「福島らが、勝手に、あるいは、受け身としても、三成軍と合戦を始めて、勝ってしまえば、家康の立場はなくなる」ことを恐れたのでしょう。また、福島らが敗けてしまえば、戦力が大きく減少します。いずれにしても、家康はこの時点で、西軍と上杉の両にらみ対応から、西軍への対応を優先させる決断をしました。
 もちろん、上杉が南下すれば、常陸の佐竹義宣も協力することが考えられましたから、その場合、関東(の多く)は敵軍に奪われることは覚悟していたでしょう。史料はありませんが、上杉は、最上との戦いを優先させるという情報があったかもしれません。
 28日、黒田長政らが、小早川秀秋に内応を働きかけます。
9月1日、家康軍(兵3万、旗本が主力)が、江戸を出発し、西上します。
 1日、越前にいた大谷吉継は、西軍総指揮の毛利輝元との協議のため、大坂に戻ろうとしますが、三成からの要請により、美濃へ向かいます。

(関ヶ原へ)
 2日、秀忠軍が信濃小諸城(城主は仙石秀久)へ入ります。
 3日、西軍の犬山城が東軍に降伏し、竹中重門らは東軍につきます。
岐阜城が陥落し、孤立していた犬山城ですが、東軍に落ちたことは、福島ら先遣軍の西進をより容易にしました。
 3日、西軍として、北陸越前へ出陣していた京極高次(大津6万石)軍が大津城に帰り、籠城します。高次は、家康が会津攻めで伏見を発った6月、大津城で会見しており、家康への連絡を続けていました。妹が秀吉側室、妻が淀の妹であり、西軍との関係が深かったのですが、東軍に寝返りしました。なお、兄高知(信濃飯田10万石)は、会津攻めに加わっており、このとき、福島らと美濃赤坂付近に着陣していました。

 6日、秀忠軍の牧野部隊が、上田城兵と交戦します。
 7日、毛利元康(輝元の叔父、備後神辺城主)、小早川秀包(筑後久留米13万石)、立花宗茂(筑後柳川10万石)ら(兵数1万5千)が大津城へ攻撃を開始します。攻城軍は、15日の関ヶ原の合戦には間に合いませんでした。また、そもそも、攻城戦がなければ、毛利元康らの軍は、小早川秀秋の軍勢を後ろから追いかける形となっており、両軍が近接していれば、秀秋軍は行動が制約され、東軍に寝返ることはなかったかもしれません。つまり、二つの点で、京極高次の寝返りと大津城籠城は、西軍に大きな打撃を与えたことになります。
 7日、小早川秀秋軍が、近江石部から高宮へ移動します。
 7日、伊勢より、西軍の毛利秀元、吉川広家、安国寺恵瓊、長束正家、長曾我部盛親の軍が大垣城の南西、南宮山付近に着陣します(兵2万5千)。
 
 8日、上杉景勝の家老直江兼続軍などは、出羽山形の最上義光が人質を送ってこないため、最上領に侵攻を開始します。
 8日、秀忠のもとへ、家康からの「美濃で10日に合流しよう」との手紙(8月29日、江戸を発信)が届きます。利根川の増水で到着が遅れました。
 10日、秀忠軍は、上田城攻めを中止し、美濃へ向かいます。
 11日、家康軍が尾張清洲に到着します。
 12日、丹後宮津城の細川藤孝が西軍に降伏します。
 13日、大津城の京極高次(6万石)が西軍に降伏します。
 14日夜明け、家康軍が、美濃赤坂(大垣城西北)に入り、福島ら東軍先遣軍と合流します。大垣城の西軍を攻める場合、日数がかかりますので、家康は、野戦を望みます。東軍が近江佐和山城を襲うという噂を流したとされます。大垣城の西軍をおびき出すためです。
 14日、小早川秀秋軍が、近江から関ヶ原南西の松尾山に移動します。松尾山には西軍武将がいましたが、小早川軍が追い出しました。
 14日、家康に同行している本多忠勝、井伊直政が、松尾山の小早川秀秋家老、南宮山の吉川広家に、「家康は、小早川秀秋、毛利輝元を大切にする」との起請文をそれぞれ送ります。
 14日夜、大垣城の西軍は、関ヶ原へ移動します。西進する東軍を迎撃するためと考えられます。
 14日夜、美濃赤坂の東軍も関ヶ原へ移動します。
 15日、関ヶ原で東西両軍が戦いました。小早川秀秋の東軍への寝返りによって、東軍が西軍に勝利しました。西軍では、南宮山付近在陣部隊の最前線の吉川広家軍が、東軍に内応し、動かなかったため、後部の毛利秀元、安国寺恵瓊、長束正家、長曾我部盛親の軍は、東軍の背後に陣取るという絶好の位置だったのにかかわらず、戦いに参加できませんでした。

(まとめ)
○西軍の伊勢攻略が早期に行われていれば、美濃と伊勢から、尾張の東軍先遣軍を挟撃できた可能性があるが、伊勢攻略が遅れたため、東軍先遣軍は、美濃へ進軍し、大垣城付近まで進出できた。
○家康は、上杉軍の南下の可能性がある中、秀忠軍を先発させた。東軍先遣軍の美濃進出が順調であったため、手柄を先遣軍に取られてはならないため、自らも西上を決断した。
○上杉は、山形の最上から人質が取れなかったため、北進し、最上攻めを行った(関東への進軍を後回しにした)。
○大津城の京極高次が寝返りしたため、毛利元康、立花宗茂の軍の美濃進軍が後れ、関ヶ原の合戦に間に合わなかった。
○毛利元康の軍は、小早川秀秋軍を追いかける位置関係にいた。大津城攻城戦により、元康軍は、秀秋軍に近接できず、このことは、秀秋軍の寝返りを容易にした。(※進軍の位置関係は、奇妙なものです。東征する細川忠興軍の後を行く大谷吉継軍、東軍の西上先遣軍のうち、伊勢部隊の帰国を急がせる家康、秀忠軍の西上を先発させる家康、小早川秀秋軍の後方に位置する毛利元康軍)
○東軍の総大将、徳川家康は関ヶ原の戦いに参加したが、西軍の総大将、毛利輝元は、参加しなかった。

 「どうする関ケ原」は今回で終了です。秀吉死去後の二年間の徳川家康と、石田三成ら奉行衆、他大名との間に繰り広げられた権力争闘ですが、みなさまのご感想はいかがだったでしょうか。
 徳川家康が繰り出す攻勢、大名間の婚姻、七将襲撃、前田利長の「家康暗殺風聞」、「上杉討伐」などは、反家康側を抑え込む策の連続で、それらは上杉討伐の中止(三成の挙兵)までは、すべて成功でした。
 一方、反家康側は、西軍の挙兵は家康を出し抜き、圧巻でしたが、軍事行動は緩慢としており、東軍先遣軍に美濃に侵入を許したのは、致命的であったと考えます。大垣城周辺でも、城と地の利を活かした戦いができませんでした。しかし、石田三成は総指揮官ではありませんでしたので、それを求めるのは酷であると考えます。西軍の大将は、毛利輝元であり、彼と家康の能力の違いに尽きるとも言えます。
 ただ、西軍挙兵から関ヶ原の戦いまでの2か月の間、西軍にはいくつかなすすべはあったかと思います。これは「まとめ」に書いておきました。
また、西軍挙兵の前年、大老の前田利長が領国加賀に帰国したことは、非常に大きな出来事(歴史の分水嶺)と考えます。利長は、秀吉から、父利家の大事の際は、代わって大坂城で秀頼を補佐するよう遺命されていました。その務めを放り出すのですから、もう何も言うことはありません。。このことも、利長と家康との能力の違いに尽きると思います。
 また、個人的に好きな黒田如水について、九州の動きについては、記しませんでした。残念ながら、東西両軍の動きに影響を与える動きではなかったからです。。。
 機会がございましたら、みなさまの「どうする関ケ原」のご選択、お聞かせくださいませ。歴史ファンを魅了してやまない「どうする関ケ原」、お付き合いくださいまして、ありがとうございました。
 
 

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