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ネガティブの積み重ね

僕はランニングしているときにいろんなことを考える。仕事のこと、家族のこと、自分のことなどその時頭の中にあることを整理したり、深掘りしたりしながら走っている。

事実の整理だけでなく、その時感じた感情について、なぜ自分がそういう感情をいだいたのか、根っこの部分を探すイメージでぐるぐると考えている。

そんな風にランニングしていると、フラッシュバックするように過去のネガティブな出来事が顔を出すことがある。

そして最近よく感じるのは、年を重ねるにつれそうしたネガティブな事象が積み重なっていき、どんどん増えていること。あの時あんな失敗をしたな、こんな失敗もしたな、ということが増えたなあということ。これからもこんな風にネガティブが積み重なっていくのだろうか、とふと考えてしまう。
なんなら、ネガティブを積み重ねるために生きているのか、と。

人生において、ネガティブが積み重なる、とはどういうことなのだろう。

今回のnoteでは、そんな「ネガティブな事象」について、観察していきたいと思う。

そもそも、「ネガティブな事象」とは何か、自分なりに整理してみると以下の図のようになる。

ネガティブな事象には、2つの側面がある。
一つは事実ベースの流れ。
何かしら問題がおこり、他人や自分から攻められる(叱責されるというよりは、問題の原因に自分が加担していることを指摘される、自ら気づくイメージ)。そして、失敗(自分が問題の一因であったこと)を認知し、解決に向けた行動に移っていく。
もう一つは、感情ベースの流れ。
主に「攻め」られるタイミングで、様々な感情が沸き起こる。この時はその感情が他人に向くときもあれば、自分に向くときもある。
そうした感情の波を経て、解決に向けた前向きな行動へと変化するとともに、感情も平常心に戻っていく。

さて、そんな「ネガティブな事象」を積み重ねる、ことにはどんな意味があるだろう。

事実ベースで捉えると様々な「失敗」を経験することで、同じ状況になった時に「失敗」しない。経験値が上がる、というのも一つの側面だろう。
ただ、失敗を重ねてできることが増えていくと、未知の領域で活動する機会も増えてくるため、結局「失敗」の総量は変わらないのかもしれない。

事実ベースでみると、人生における「失敗の総量は変わらない」

これはこれで、一つの示唆になるかもしれない。
そうか、失敗が積み重なることにくよくよしてもしょうがない。いずれにしても人生の失敗の総量は変わらないんだから、と。

では、感情ベースでみてみるとどうだろうか。
「失敗」を経験するたびに、他人や自分に対していろいろな感情を抱くことになる。時には、胸が締め付けられるような感情がわいてくることもある。ただ、事実ベースの側面とはことなり、同じ場面に出くわした時にも同じ感情を抱いていることが多い。同じような怒り、焦り、悔しさを抱いて悶々としている。なぜ、失敗から学び、同じ場面に出くわした時に回避することができないのだろうか。

それは、湧き上がる感情について、表層しか理解できていないからではないか、と思っている。例えば、以下の図のように、その時その時で見えているのは感情の表層だけであって、感情の源泉までしっかりとらえきれていないからなのではないだろうか。

こうして整理してみると、同じ反応をしないためには自分のなかの「あるべき」に向き合う姿勢を変えないと、感情の繰り返しが起きてしまう気がする。

自分の中にある「あるべき」という思い込みを
一つ一つ確かめて、不要なあるべきを手放していく。

そうすると、感情が沸き上がるタネそのものを少なくすることが出来る。
また、「あるべき」姿を自分や他人に押し付ける、或いは無意識のうちに期待してしまうと「そうならなかったとき」に感情が沸き上がってしまうので、「あるべき」姿と現実の自分や他人を比較しない、ことも大切ではないか。

きっかけは何であれ、全ての感情は、
自分の中から生まれていることに気づくこと。

さて、人生における「ネガティブの積み重ね」について、観察をしてきたが、その過程でいろいろな気づきがあった。では、人生においてネガティブが積み重なるとはどういうことか、その意味はなんだろうか。

今の自分なりに答えると

ネガティブは、自分の中にある不要な「あるべき」に気づくきっかけ。

と、言えるのではないか。

ネガティブの積み重ねが、ポジティブであることを信じて人生を前に進めていきたいと思う。


ノートを読んでいただきありがとうございます。