加速

イイナミが来てる「感覚」

なんだか不思議な世界にいる感覚がしているので覚え書きです。

まず、書くこと。

以前、ノートを書くこと(ココのnoteの話じゃなくて、紙に書くこと)をお勧めされた時期がありました。

書店にも”書くことで現実化する”趣旨の本がたくさん並んでいたりして。

紙=神。

そして言霊。

神様に伝えることーー

今改めて考えると、それって神社に行くのと同じ?!




この「書くこと」をここ数年続けてきたのですが、併せてアウトプットもしてきました。

それがこのnoteだったり、YouTubeはじめSNSだったりするのですが、アウトプット(シェア)も豊かさにつながる行動です。
書くこと自体がアウトプットでもあるのですが、これはぜひ私もおすすめしたいーー(以前私が読んだ本のように。)


アウトプットとは与えること。


これも以前お勧めされたことなのですが、”give & take”ってよく言いますよね。

何が言いたいかって、「与えよさらば与えられん」ってやつなのですが、すべて”先出し”の法則ーー

ちょっと話はそれますが、「片付け」が話題になったことがあるかと思います。

これも同じ。

自分自身の使う場所のスペースを空ける。
→他の物を置く余白ができる。
→つまり次の物が入ってくる。(入ってきても大丈夫な状態になってる☆)

先出しの行動は「豊かさ」の第一歩と言えるでしょう。

これを逆に考えてみます。
先に物を受け取ってしまったとしたらーー

先ほどの片付けの例で言うならば、
”自分自身のクローゼットいっぱいに洋服を持っているのに、デパートでセールをしていて、安かったから買ってきちゃった“

ーー買ってきた洋服はどこに仕舞いますか?

クローゼットに押し込めば入るかもしれません。
でも、それではクローゼットがパンパンにはちきれそうになっている状態。
すなわち「溢れている」んです。

お風呂のお湯を溜めている時に、適量で止めなければお湯は浴槽から溢れて浴室は水浸し。

浴室には排水の設備があるので、リビングまで溢れてくることはありませんが、結局のところ、溢れた分は水道代としてただ支払うことになるかと思います。

洋服のハナシも同じです。

着ていない洋服=ただ流した水

一言で言うならば「無駄」になるのかもしれません。


「無駄」の角度を変えれば循環になる。

先ほどの洋服の例を続けます。

「リサイクル」という言葉があります。

リサイクルショップではこんな言葉が聞かれます。

「ご不要になりました〇〇、お売りください」

“私”にとって「不要」でも、誰かにとっては「宝」になるわけです。

この例では“不要”だから“片付け=手放した”という展開(話)ですが、不要でなくても手放すことを私たちは日常的にしています。

それはーー


SNS


です。

ここまで、物質を片付けるハナシをしてきましたが、ここから先は“見えないもの”をアウトプットするハナシになります。

皆さん、「口コミ」って書いたことありますか??

最近読んだ漫画・今さっき見てきた映画・今日のランチ・インターネットで購入した商品・泊まった宿などなど

「面白い・良かった・おススメしたい・これ好き!」って思った時、誰かに話したくなること、ありませんか?

口コミを書くまでもなく、友人や家族に「コレ、おススメ!」って話したことはありませんか?

まず、一番近くにいる人に直接会って話し、さらに遠く(果ては顔も知らない誰か)にもその思いを伝える、それが「SNS/口コミ」であり、インターネットの普及によってその範囲がとてつもなく広がりました。

直接であれ、インターネットを使ってであれ、自分自身の思いを伝えること、それはすでにアウトプットなのです。

先にも書きましたが、「アウトプットとは与えること」ーー

あなた自身の発信が誰かの豊かさにつながる

あなたが話したことを聞いた(読んだ)人がそれを実際に体験してみて、また、別の人に伝えていくーー

これが「循環」です。

あなたの話を聞いた(読んだ)ことで、それを知ったその誰かの生活に感動を与え、より豊かにし、その人がまた他の人に循環させていく
「豊かさ」ーー

だからこそ、「言霊」なのです。


“きれいごと”


ちょっとここからがムズカシイ話になります。

耳ざわりの良くない話ーー

先ほどの口コミの例を続けます。

例えば、友人が目を輝かせながら「コレいいよ!!絶対おすすめ!!」と言ってきたことに対して、」自分には合わないなって思った経験、ありませんか?

あっていいんです。

友人の“できること”が、自分もできると思うこと、それ自体がまず「間違っています」。

友人の「楽しい」と自分自身の「楽しい」は違うということです。

友人の「美味しい」と自分自身の「美味しい」は違うということです。

友人の「得意なこと」と自分自身の「得意なこと」は違うということです。

つまり、友人と自分自身は違う存在であるということです。


「どんぐりの背比べ」・「出る杭は打たれる」

そんな言葉があります。

よく「日本の教育は~」という表現がされることがありますが、ここではその表現を借りてみようと思います。

今まで生きてきた過程を振り返ってみると、こんな感じがするのですが、どう思われますか?

「みんなで一緒にやりましょう」
ーーその傾向が強かったのではないか、と。

みんなで一緒にやるために足並みをそろえるために、立ち止まって進捗を確認するーー

出すぎていないかどうか。

もちろん、力を合わせることでできることがあるのも事実です。

わかりやすいのでお借りしますが、『スイミー』っていう絵本、ご存じですか?

赤い魚の群れと暮らす黒い魚(名前をスイミー)が、自身が目となり、群れの赤い魚と協力して自分より大きな魚を追い返す話です。

ただ、ここで私が思うのは、24時間365日、スイミーは赤い魚の中で“目”であったのかということです。

赤い魚たちも24時間365日、同じ隊列で泳ぐ必要があったのかということです。

実際、その隊列で泳ぐ練習をする場面がありますが、それ以外は各々好きに泳いでいます。
岩場のイソギンチャクと遊んだり、時にはクラッシュと海流に乗ったり、エイ先生と学校で学んだりしてもいいわけです。

(っと、途中から『ファインディング・ニモ』をぶち込みました。笑)

話が飛びすぎかもしれませんが、それくらい自由でいいということです。

(※それぞれの話をご存じない方で、ご興味持たれた方はぜひ調べてみてください。誰でも自由に情報にアクセスできる世の中だと思われます。
逆に言えば、興味を持たなければ“入ってこない”のがこの世界の仕組みだと思いますーー)

そして、実際私たちはみんな自由なんです。

例えば、会社の隣の席の同僚も、会社の外に出れば、アフターファイブをどう過ごしているか知る由もない、そういう話です。

知りたいと思いますか?
むしろ、自分自身のアフターファイブを同僚にすべて話したいと思いますか?

あなた自身と、24時間365日、一緒に過ごしている人はこの世界にいるでしょうかーー

実は、います。


それは「自分自身」


さて。あなた自身、「自分のことをどれだけ知っているか」と問われたときに「120%」と答えられるでしょうか。

自分自身の「好き」「嫌い」「できること」「できないこと」「夢や希望」「やりたくないこと」ーー

すべてのことに表と裏があります。

「表裏一体」と言われます。

好きを知ることは嫌いを理解することで、嫌いを知ることには好きを認識することになります。

また、できることを知ることは、得意を伸ばすことになり、できないを知ることは“無駄”なチカラを使わないことにつながります。

夢や希望を描くことで、その理想の世界を生きることにつながり、やりたくないことはやらなくてよくなるーーすなわち楽に生きられるようになります。

自分自身を(楽に)開放すること

開放すると自由になります。すなわち楽になります。
例えば刑期明けの受刑者ーー?

例えが極端かもしれませんが、「解放」というのは文字通り読んで字のごとく。解き放たれること。


ラクに生きられると人生は楽しい


これまでの私自身の人生で受け取ってきた情報や知識、そして経験。

ここに書いたことも、その経験に基づきます。

そして、プロフィールに書いているように、それ(経験)は「…実践中」。

まだまだ旅の途中であり、現在進行形。-ingなわけです。
(traveling light)

私の人生が進行中であるように、皆さんの人生も並行しています。

共に生きていることに感謝です。
出逢ってくれてありがとう。


最後に。

「アウトプットするなら良き言葉を」

言霊の話です。

先ほども書いたのですが、24時間365日ともに過ごしているのは自分自身です。

自分の言葉を一番聞いているのは自分自身。

私のnoteを一番最初に読むのは、実は私自身なのです。

時折、「覚え書き」であることも書き残してきました。
noteにしてもYouTubeにしても、他SNSにしても、すべて私の旅の記録です。(人生の記録ーー)
正直そんなに覚えておけないから、その時に感動したものを残しておきたいという思いがありました。
(※私の頭は洋服箪笥と同じです。←ここまで読んでくれた方になら伝わると信じてます)

そして、せっかくだからインターネットにしたら、(私だけではなく)見ることができるよねーーというのが始まりです。

今までの発信もすべてそれに則って続けてきました。


実は本文中に「わざと」そういう表現をした箇所があります。

「間違っている」

※どこで使ったかわかりますか?☺

「間違い」っていうのは本来はない。それが私の持論です。

合っている・正しい・正解ーーそれは感覚的なハナシの場合、人によって尺度が変わるからです。

数学の問題を解くのに方程式を間違えたとか、ちょっと計算ミスをしたーーっていう「間違い」は確かに間違いかもしれません。

でもそれによってその学期の期末試験で赤点をとったとしても、その赤点が決定打で内申書が振るわなくて、志望校受けられなかったとか、そんな過去があったとしても、別の人生を選んだからこそーー選ばさせられたーー

今の幸せがあるのであって、今が幸せなら結果オーライであって、

「終わり良ければ総て良し」とも言われますし

そもそもまだ“旅の途中”って考えたら、どうにでもなるハナシだっていうことです。

※上記はフィクションです

志望校を変更せざるを得なかったという一例は、
別の道ーー道を英語でwayといいますが、日本語に訳すと「方法」っていう意味があったりもしますーーで大成功するための通過点だったということもあり得ますし、そうなっていなかったから結果良かった、あの時のアレがあったからむしろ頑張れた、そういう経験値を上げる「not きれいごと(きれいごとじゃないこと=耳ざわりのよくないこと)」。


結局、みーんな精一杯生きてるんだって言ったら何様ってなっちゃうかもしれないけど、世の中そんなことがあるよなぁって思ったから。

そして。やっぱり、今の生活、楽しいって思う今日この頃で。


楽しいは最強。


自分自身の楽しいを突き詰めること、そのために自分を知ること、自分と対話すること、そのために書く(可視化する)って有効だから、長くなりましたが、そんなところ。


サムネイルこそ、見てほしい↓↓↓
(笑)

チャンネル登録よろしくね♡
(ってフツーの人は言うんだろうな)


途中で「最後に」って書いた氣がするのですが、そこからがまた長かったーー

(笑)

きっとハナシの長い校長先生は、話したいことがたくさんあって、ゆえに経験豊富なのかもとか学生卒業してから思ったりして。


Happy traveling!

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