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「ダサい」あるいは「カッコいい」という感覚について

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「ダサい」あるいは「カッコいい」という言葉、感覚というものがあるけれど、それは人によっても違うし、自分にとってもずっと同じというものではなくて変化していくものだなあと思う。

他人から見たらものすごくダサく見えても、本人からしたら最高にクール(古い表現になるのだろうか?)ということもあるだろうし、これまでイケてる(これも古い表現になるのだろうか?)と思っていたものがカッコいいと感じられなくなり、逆にダサいと思っていたものが「なんだかこれもいいかもなあ」なんて感じらるようになることもある。

なので「ダサい」とか「カッコいい」という感覚は、とてもとてもあいまいでフワフワしたものというのか時代によっても変わるし、人それぞれでも違うし、さらに本人ですら価値観が変わればその感覚も変わっていくわけである。

若い頃は特に「ダサい」あるいは「カッコいい」という感覚に敏感だったというのか、「ダサいと思われたくない」「できればカッコいいと思われたい」という気持ちが強くて、ファッションにはほとんど興味がない僕でさえ、着る服とかに多少は気をつかっていた時もあった。

とはいえ、そういうファッションなどは、その時代の流行でダサいもカッコいいもコロコロと変わっていくような気もするし、今はもっと細分化されたというのか、まわりがどうこうとか流行っているからではなくて、自分が好きだから、カッコいいと思うからこれを着るという人が多いように感じる。

僕はもう40代のおじさんなのだけれど、年齢を重ねてよかったなあと思うことのひとつが、そういう「ダサい」とか「カッコいい」という感覚からだいぶ自由になれたということである。

10代、20代とかは特にダサいとかカッコいいということを気にしていたように感じるし、つまりそれは「他人からどう見られるか」あるいは「他人からどう見られたいのか」ということばかりを意識していたのだと思う。

それが30代に入ってくると、いい意味で他人の目というものを気にしなくなってきたというのか、まあ気にしなさすぎなのもうまくないのかもしれないけれど、「これはダサいかな?」とか「これはカッコいいかな?」みたいなことはほとんど意識しなくなった。

もちろん、30代でも40代でも、あるいはさらに年を重ねても、カッコよくてオシャレな人たちはたくさんいる。

そしてそれはとても素敵なことだと思うけれど、今の僕はそういうところに興味がなくなったというのか、優先するところが変わったのだと思うし、今は同じようなトレーナーとズボンを毎日のように着ているけれど、とてもラクだしシンプルなデザインだから全く飽きないし、定番のものだからボロボロになったらいつでも買い換えることができる。

多分だけど「他人からどう見られたいか」という感覚が強かったところから「自分がどうありたいか」というふうな感覚の方が強くなってきたというのか、まあ年を重ねてあまり気にしなくなったというのもあるけれど、今はそういう「ダサい」とか「カッコいい」にしばられなくなった自由な感覚がとてもラクだし気に入っている。


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