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【愛知・名古屋】伊藤圭介とシーボルトの東西植物譚

時は江戸時代。
尾張藩の医師であり博物学者の伊藤圭介は、高なる胸を押さえるように、この日のために準備をした植物画を携えて、熱田神宮へと向かった。
幼少期から圭介の師であった、本草学者・水谷豊文と一緒にだ。
なんと、舶来のドイツ人医師が日本の文化や植物に興味があり、江戸へ参る道中でも各地を調査していて、この尾張をも訪れていると言うではないか。
こんな機会は、一生に一度、あるかないか。

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高まる緊張と期待に包まれた熱田の宮で出会ったのは、髪の色も、目の色も淡い色をした異邦人。
彼の名は、シーボルトと言う。
彼は和の植物に大変意欲的興味を示していたので、私たちはたくさん尾張や美濃の植物の話をした。それらが異国ではどのような名前なのかも知りたかった。

異国の話は、まるで御伽草子のようだった。全く違う世界で、そして植物の洞察や体系は私達の知る植物よりも何層も深く研究されており、一向に興味が尽きない。
彼が、「余の住む長崎へ来ると良い。」と、言ってくれたことをきっかけに、私は長崎へと遊学し、彼の元で師事することとなった。

彼は、私たちに植物解剖学を教えてくれた。部位ごとに分けて、観察や分類をしていくのだ。
スイスのリンネという植物学者の植物分類法についても習ったので、私たちはそれによって和の植物を分類していき、それこそ山のような図譜を作った。
植物を育て、観察し、本にしたためることは、この戦が無くなった時代の武士の嗜みなのだが、いやはや、大義名分のためもあるとはいえ、見知らぬ国の学問や知識は、沸き立つほど面白くてたまらない!
(そうそう、リンネとやらは花の中央にある細い性的な部位の数などで分類しているようだ。私はそれに「おしべ」「めしべ」という和名をつけた。めしべについた粉は「花粉」と呼ぶことにした。)

彼は私が長崎を去るときに、「フロラ・ヤポニカ」というスウェーデンの植物学者がたった一年だけ我が国で滞在した際に、800種類もの植物をまとめ上げた洋書を、私に託してくれた。
なんという貴重なものを、、、!
彼と一緒にそこに載っていた植物たちの和名を決めていき、私は尾張に戻ってから「泰西本草名疏」という本にまとめ上げた。
知識もそうだが、我々の植物画の書き方も、西洋のそれと交わっていった。

シーボルトは、「余は圭介氏の師であるとともに、圭介氏は余の師である。」と、言ってくれた。身に余るような言葉だ。
彼が私たちにもらたしてくれたものは、後世に語り継がれるほどに偉大であった。我が国の本草学が飛躍的に進展していった。

彼はいつしか、西の国へと帰っていった。
オランダのライデンという街で苗木屋をはじめ、東洋の植物を育てて販売したそうだ。
異世界の植物たちは、さぞ西の人々にとっては奇奇とした形相だったであろう。魅了された人々も多く現れ、芸術家たちもこぞって描き、アール・ヌーヴォーとかいう系譜が生まれたらしい。

東洋人は遥か彼方の西洋に憧れたが、彼らもまた、東洋に惹かれたようである。
隣の芝生は、青いものだ。

私はその後、住み慣れた尾張を後にして、東京大学で我が国初の理学博士として研究に従事することとなった。小石川植物園で84歳まで仕事をした。牧野など、様々な個性あふれる植物学者と共に植物学を蘭学のそれに見劣りせぬほど築いてきたつもりだ。

今となっては、昔の話。

私ももう99歳になるが、天寿を全うするまで、博物学と医学の発展に身を投じることとする。
本草学が江戸や京都に引けを取らぬほど栄えた、屈強な我らの尾張藩も、象徴であった金のシャチホコを明治政府に差し出して、統一された国家へと移ろっていく様も見た。
諸行無常の世ではあるが、動植物たちの命の営みのように、我々も街も新陳代謝を続けていくのである。

夜な夜な、時折切なさを感じては、カステラや葡萄酒を味わいながら熱く語り合ったあの日を思い出す。

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以上、実話を小説っぽく書いてみました◎
尾張藩が、こんなに薬草文化の熱いところだったとはーーーーー!!!Σ(๑°⌓°๑)

尾張ならではの民間薬もあったみたいなので、更に追加リサーチをしてみたいと思います⭐

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