暮らしが仕事、仕事が暮らし。

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最近の記事

2024年4月の本たち

1. 『言葉を失ったあとで』/信田さよ子・上間陽子 依存症、DV、家族問題の第一人者である信田さよ子氏と、沖縄で社会調査を続ける教育学者の上間陽子氏の対談集。 まえがきにあったこの言葉を読んで、数年前に見た映画『プリズン・サークル』の記憶が蘇った。 『プリズン・サークル』は、加害者更生プログラムに参加する受刑者たちの様子を映し出す、日本で初めて刑務所の中に入ったドキュメンタリー。 映画を見ながら思ったのは、加害者に対する謝罪、反省、被害者への共感性の要求は、彼らが実際に

    • 2024年3月の本たち

      『新編 日本の面影』/ラフカディオ・ハーン 2月に松江〜出雲を訪れた際に、小泉八雲記念館に立ち寄ったことがきっかけ。 恥ずかしながらそれまでは「怪談の人」というイメージしかなかったのだけど、生い立ちから来日までの変遷、日本に帰化してから亡くなるまでの生涯を学べたことで、一気に興味を惹かれてしまった。 それと、松江散策中に立ち寄った明々庵で、たまたま一緒に抹茶をいただくことになったスイス人のおばあちゃんと話をしていると、どうやら彼女は小泉八雲の映画「怪談」(1964)をスイ

      • 心の傷を癒すということ

        先日、映画『心の傷を癒すということ』(2021)を見た。 能登半島地震の発生を受け、合同会社ミナトスタジオがチャリティ・オンライン配信を企画・開始したのを知ったことがきっかけ。(3/31まで無料配信) 2020年にNKHの土曜ドラマで4回にわたり放送されていた内容を、2時間に再編集した劇場版。 1995年に発生した阪神・淡路大震災の中、被災者の「心のケア」のパイオニアとして奮闘しつづけた、精神科医・安克昌氏の生涯をもとに、未曾有の災害下での心のケアの厳しさと、一市民として心

        • 「別れ」の技術

          「別れの季節」というのを肌で感じられていたのは学生の頃までで、大人になった私たちにとっては一年中が別れの機会で満ちあふれている。 昔は「区切り」に近しい意味を持っていた別れが、歳を重ねるにつれて様々な形で押し寄せてくるのには、なかなか慣れることがない。生涯にわたって誰もが幾度となく経験するのに、幼少期に誰かが「別れ」との上手な付き合い方のお手本を教えてくれるわけでもなく、一人ひとりが自分のやり方で乗りこなしていくしかないのは、ずいぶんと難儀だなあと思う。 なんとか乗り越え

          2024年2月の本たち

          『増補 近代の呪い』/渡辺京二 思想史家・歴史家・評論家である、渡辺京二さんの著作を初めて読む。 ちょうど昨年末に『近代の呪い』(2013)の増補版が出たタイミングで、スタジオジブリの小冊子に掲載されたインタビューも追加収録されていたことも後押し。 明治維新を経た近代化によって手にした衣食住の質向上と、民主主義運動がもたらした人権・自由・平等。この大きな近代の恵みと引き換えに、私たちは何を失ったのか。豊かさを達成するために人類が背負うことになった、ふたつの呪い。 ひとつ

          【食】 お雑煮百景ー#001 「とらや」

          お雑煮ーー。年に一度、実家でしか遭遇することのない料理に対してそこまで特別な思い入れもなければ、特段意識することもあまりなかったこれまでの約30年。それが今年は、ひょんなことからお雑煮元年となってしまったのです。 発端は、友人の投稿から「とらや」のお雑煮の存在を知ったこと。京都発祥のとらやらしく白味噌仕立てということで、すまし仕立てのお雑煮しか食べたことのない胃袋の好奇心を刺激され、翌日にさっそく帝国ホテル内の虎屋菓寮へ。 蓋をあけた瞬間から、そのビジュアルに心を鷲掴みに

          【食】 お雑煮百景ー#001 「とらや」

          記憶の混濁が紡ぎ出す、小さな世界/『遠い山なみの光』

          カズオ・イシグロ作品を読むと、自分がいかにせっかちなのかということを毎度思い知らされる。 「私」という一人の語り手の告白によって構築されていく物語は、語られる出来事の時系列が前後していて、なかなか全体像を掴ませてくれない。 始まりから終わりまで、ぼんやりと霧がかかった景色が、少しずつ、ようやく視界に捉えられるくらいまでに姿を現したかと思えば、突然幕が下ろされて、置いてけぼりにされてしまう感覚に近い。 そして、この居心地の悪さを味わいたいがために、つい彼の本を手に取ってしまう

          記憶の混濁が紡ぎ出す、小さな世界/『遠い山なみの光』

          悲しみを「受け入れる」ってなんだろうね

          『受け入れるってなんだろうね』 彼女が亡くなった年の暮れ、一緒にお参りに行った友人がつぶやいた言葉のことを、それからずっと考え続けていた。 「受け入れる」という特段変わったわけでもない、自分でも何の気なしに使っていた言葉の意味が、いざ親しい人の喪失を目の前にしたときに、途端にわからなくなってしまった。 「やっと受け入れられたかな」 「時間が経てば受け入れられるよ」 決して他意はないはずの、こうした言葉の一つひとつが鈍く刺さって、誰とも話したくない期間がしばらく長く続い

          悲しみを「受け入れる」ってなんだろうね