実家にお風呂がなかった頃。

裕福でないお家で育ちました。

小さい頃から英才教育を受けた絵に描いたようなお嬢様の母と、男は傷つくって一人前だが口癖の元ヤンキーの父の元に私は産まれた。

2人が全くもって教育方針も、生活の価値観も180度違うことをだいぶ早い時から感じ取っていて、こんなに仲良くできないのになんで一緒にいるの、が幼い頃の私の疑問だった。

思春期真っ只中な17歳の時にいよいよなんでお父さんと結婚したの聞くと、
「あの時連れ出してくれる人なら誰でも良かったの。」とぽつりとこぼした。

母は私が産まれる前に、私の父とは違う男性と結婚していたらしい。お見合い結婚でとんとんと結婚してみたはいいけど、生活はとんとんと進まず、とても抑圧された日々を送っていた。

そんな地獄のような結婚生活の中で、商店街に買い物に出かけた母は道端で果物を売っている青年を見つけた。
自分が選んだものを自分で売るその姿に今までにない頼りがいと自給自足を感じ、母は恋に落ちた。それが私の父だ。今まで出会ったことのないようないわゆる"育ち"を感じさせる女の人に父も惹かれた。出会ってから結婚するまであっちゅーだった。本当に私が引くほどに。

母は離婚して、父と駆け落ち同然で結婚した。結婚に勢いづけられた父はバブル崩壊直前に土地と物件を買い、自営業を始めた。二階建ての小さな戸建てで、1階は自営業のためのスペースでお風呂もないような家であった。

今までのように豊かじゃない環境の中で、生きがいを見つけ、わたしという子供を授かり必死に生きていた母だったが、それと反比例するように父の仕事はうまくいかなくなり、多額の借金を背負った。土地が担保にされたためもう家が無くなるかもしれないところまで追い詰められた時もあった。

そんな状態を救ってくれたの母方の祖母。土地だけは買い戻してもらい、残った少し大きな借金を両親は返していくことになる。
この助けが本当に本当に良かったことなのかは今になってはわからない。

自営業だからと言われ私を保育園に入れることが出来ず、母は私を自転車の荷台に私を乗せて母は働いた。10時から仕事が始まり、18時に仕事が終わるまで母の職場の近くの本屋で本を立ち読みしてずっと母の仕事が終わるのを待つ。毎日本屋にいて、毎月立ち読みし続けてどうしても欲しいと思った本を一冊だけ本を買ってもらったこと、お給料日に母の仕事が終わるとファミレスでパンケーキを二人で分けて食べたこと、この頃の思い出はそればかりだ。

私の母は貧しさで人への評価を変える人ではなかった。ただ人は上手くいかなくなるとどうしようもなくなる時がある。運命を共にすると決めた人がどうしても許せなくなる瞬間はある。
必死に生活を支える母とは、反対に父は少しづつ動かなくなった。家で昼間から野球を見て過ごす父の背中をみて、なんでこの人ずっと家にいるの、と思いながら宿題をする日々がずっと続いた。
それでも母は父と離婚しなかった。今だって生活を共にしている。

「ずっと好きでいさせてくれる、って言ったから結婚したんだよね。でもね、それが一番難しかった、でも今でもよかったって思いたいのよね。」
思春期の質問への回答の続きがこの言葉だ。

ずっと好きでいる、そんなことできっこないと人は笑うかもしれない、そうだとしても17歳の私にとってこの言葉は衝撃でした。
この人は父のことをずっと好きでいたくて、好きでなくなってからも少しの望みで父といたのかと考えたりするとぎゅっとなって、仕方なかった。その反面、呪縛のような思いの中で母は生きている、そうも思った。

人を信じるということは呪縛かもしれない。17歳からずっとそう、思い続けている。

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@taberutonemui

#エッセイ

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