New York 見聞記 3-2 Ellis Island (移民博物館)
動画を発見
ようやくエリスアイランドでの動画を発見した
どうしても記事にしたかったからだ
動画からの写真ばかりだが
おかげで、顔がぼやけている分
プライバシーの件での手間が省ける
この記事では
動画から取り込んだ
写真をできるだけお見せしたい
ところでEllis Islandに行くには
自由の女神から船で行くのだ
つまり自由の女神を見たものが
EllisIslandへの船に乗れるというわけだ
希望すればの話だが・・・
移民の受付
ヨーロッパ各地、アジア各地からの
移民の受付を
このEllis Islandにあった
移民局で行っていたのだ
私は詳しいことは
調べてもいない
つまり
知らないのだ
それでも
ここを訪れたとき
感動と移民者たちのすごさを
少しではあるが
感じ取ることができたと思っている
いきなり目にしたトランク類
でかい
重そうだ
どんな船で来たのか
そんな疑問に
実物が答えてくれる
これだけ顔がそろっていても
動画からの取り込みだと
誰の顔だかわからない
でも、確かに
この移民局を訪れた人たちなのだ
その数の推移が記録されていた
次々と出る質問
この博物館の
いたるところに公務員の
案内係が待機してくれる
説明をしてくれるためだ
アメリカでは
次々と質問が出るのは
珍しいことではない
どうでもいい質問も多いが
自分が聞きたい質問も多い
こんな船でどうやって?
大西洋は太平洋よりは
確かに狭い
それにしても・・・
勿論大きな船で渡った人たちが
たくさんいただろうけれど・・・
今の時代なら安心航路かもだけど
当時だた・・・
何と言ってもアメリカという
あの国ができてから
まだ300年経っていないはず
強制収容施設
ここからはいよいよ日本人の移民者に焦点を当てる。
「JAPS」とはJapaneseの意味だ。しかし、その中身は日本人への蔑視が込められている。「隣は白人居住地域だ」これが当時の日本人への気持ちの全てだ。太平洋岸の日本人は後の写真で見るような砂漠に建てられた収容所に集められた。
父の知人も収容されたのだ。LAからアリゾナの砂漠への移動。命令から2,3日しか猶予が与えられなかったのだ。彼らのせいではない。戦争のなせる業なのだ。汗水流して苦労して手にした財産は隣近所に安くたたき売られた。
知人はその後日本に帰国した。私の家族が住む近くに何度か訪ねたことがある。当時としてもひどく狭いところだった。優しい家族だった。今でも忘れることのない家族だ。
アメリカの謝罪
私が留学していた1982年、丁度その頃アメリカではこの日本人移民を
収容したことが問題となっていた。私はそのことをチラとしか知らなかった。
米国が国として謝罪し賠償金を支払ったらしい。実はこのことは当時ある教科を習っていた大学教授が私に謝ったことから知ったのである。
おばあちゃん教授だったがこの家族の話をしたら日本に帰ったらごめんなさいって言われたと伝えてと話してくれた
もう少し写真をここに見ていただこう。収容所での生活を少しでも垣間見るのは戦争の影の部分を確認する作業となるからだ。
警戒も厳しかったようだ
収容施設内で(当然のことだが)騒動が起こったことも展示されている。
その騒動鎮圧のために軍が投入されたという記事がある。下記の写真がそれである。
第2次世界大戦に駆り出された日系人もいた。自分から出願した日系人もいた。ハワイ出身のある部隊は敵方から恐れられる凄まじい活躍をしたとの話だ。日本との直接対峙を避けるためヨーロッパ戦線に送り出されたらしい。
私はあえて調べているわけではない。写真を提示するために聞きかじったことを書いてみただけである。
Ellis Island
一度は行ってみる価値がある。最後にこの記事の締めとしてもう一枚の写真で終えよう。上記の写真もこのEllis Islandの博物館に展示されたものだ。
当時の移民局だ。今では移民の歴史を語る博物館だ。実物と映像のオンパレードだ。アメリカ政府の展示物だ。
すみません。「私の戦争体験 実体験無けれど」にこの記事の抜粋を写した時に、コピペのつもりが、切り取りにしてしまったので、元の記事がなくなりました。そこで、「私の戦争体験 実体験無けれど」に写した部分を逆にコピペしましたので、全体としてちぐはぐになってしまいました。2022. 9.4
その時に気が付いたので「筆者」を「私」への書き換えをしました。2022. 9. 5
完
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