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イギリスの普通の町が、「一生忘れられない町」になった旅

どこか、イギリスの普通の町へ行きたいと思った。

有名な観光地でもなく、穴場的なスポットというのでもない、イギリスのどこにでもありそうな、なんでもない町へ……。

Googleマップでイギリスの地図上をあっちこっちと動かすうち、ふと目に留まった町があった。

ウェールズの北西部にある、バンガーという町だった。

これといった観光スポットもない、小さな港町らしい。丘の上に大学があり、その下に町が広がっている。

少し足を延ばせば、世界遺産の古城がある。とはいえ、『地球の歩き方』を広げると、バンガーという町そのものは、1ページのわずか半分でしか紹介されていない。

ここかな、と思った。

あるいは、他にも相応しい町はあるかもしれないけれど、ふとした直感で旅先を決めてしまうのも、悪くないように思えた。

さっそく僕は、数軒しかないホテルのひとつを予約し、ロンドンからカーディフを経由して、そのバンガーを目指す旅に出たのだ。

せっかくイギリスまで行くのに、こんなありふれた町を訪れるのはもったいないかな、と思わないでもなかった。

本当なら、湖水地方でピーターラビットの世界を味わったり、コッツウォルズで絵本のような町並みを散策したりする方が、イギリスらしい旅ができるのかもしれない。

でも、この秋、僕が行ってみたかったのは、イギリスの普通の町だったのだ。

ただ普通の風景が広がって、だけど、それが僕にとっては特別な、そんな町へ行ってみたかった。

カーディフを出発して約6時間、ようやく降り立ったバンガーの駅は、改札口すらない小さな駅だった。

一緒に降りた大学生の若者や地元の住民らしき人たちはどこかへ散っていき、僕ひとりだけ、駅前にぽつんと残された。

ひとまず、バンガーの町を散策しながら、ホテルへ向かうことにした。

坂道の多いバンガーの町は、想像していたように、小ぢんまりした田舎町だった。日曜日のせいもあったのかもしれないが、町を歩いている人も少ない。

しばらく歩いて行くと、美しい石造りの大聖堂が見えてくる。何の気なしに入ってみると、聖歌隊の人たちが澄み切った声で賛美歌を歌っているところだった。

彼らの歌声を聴きながら、鮮やかなステンドグラスを眺めていると、すでにこのバンガーという町に愛おしさを覚えている自分がいる。この綺麗な歌声を聴けただけでも、この町へ来た甲斐はあったな、と思えたのだ。

そんなバンガーの中心にあるのは、赤レンガの時計塔だった。周囲にスーパーやカフェ、銀行があり、ここだけは行き交う人が少しだけ多い。どうやらここが、バンガーで1番賑やかな場所らしかった。

予約していたのは、バンガー大学に附属するホテルだ。丘の上に建つ大学へは、坂道と階段を上っていくことになる。

息を切らせながら、大学の校舎まで辿り着くと、そこからバンガーの町並みを一望することができた。

なんでもない町だと思っていたけれど、緑豊かな木々に囲まれた、美しい町だった。あるいは、イギリスには、こんな風景が広がる町は無数にあるのかもしれない。

さらに階段を上り、古い校舎のような佇まいのホテルへ入り、チェックインをする。ホテルの広いラウンジは大学生たちの共有スペースでもあるらしく、パソコンを開いてレポートを書いている学生の姿もある。

この大学附属ホテルが、実に素晴らしかった。部屋はゆったりと広いし、窓からは緑に輝く木々を見ることもできる。耳を澄ましても、鳥の優しい鳴き声が聞こえるくらいだ。

廊下では大学生や職員の方とすれ違うこともある。彼らと笑顔で挨拶すると、この町の日常に少しお邪魔している気持ちになれて、それが心地良かった。

部屋でしばらく休んでから、町の外れにある桟橋へ行ってみることにした。

夕暮れの光の中、ホテルから長い坂道を下っていくと、海に突き出た桟橋に辿り着く。一応は観光スポットらしく、50ペンス払って橋へ入る。といっても、わずか90円ほどにしか過ぎない。

細長い桟橋がまっすぐに続き、両側には遠浅の海がどこまでも広がっている。それはこの旅で初めて歩く、イギリスの海辺だった。

地元の人なのか、それとも観光客なのか、のんびりと親子連れが歩いていたり、犬と一緒に若い夫婦が散歩を楽しんでいたりする。釣り糸を海に放り投げ、あっという間に銀色の魚を釣り上げているおじさんもいた。

桟橋の突端には、小さなティールームがある。中へ入ると、ショーケースには美味しそうなケーキがいくつか並んでいた。若い男性の店員さんに、キャロットケーキと、イギリスへ来てから何杯目になるかわからない紅茶を頼むと、すぐに用意してくれた。

桟橋に設置されたベンチに座り、ケーキと紅茶を頂いた。優しげに吹く秋風が気持ち良く、とびっきり甘いケーキも、なかなか冷めない紅茶も、ひときわ美味しく感じられた。

振り返れば、丘陵地といった方が相応しいような、低くなだらかなウェールズの山々が広がっている。海へ目を向けると、淡いオレンジ色に輝く夕陽が、水面にもきらきらと煌めいていた。

ふと見ると、小学生らしい男の子と女の子を連れた若い夫婦が、桟橋を歩いていく。その家族連れを包む夕暮れは、たとえ世界にこれより美しい夕暮れがあったとしても、今日の僕にとっては、これより素晴らしい夕暮れはないと思える光景だった。

このバンガーへ来てよかったな、と思った。

特別な何かがあったわけでもなく、珍しい体験ができたわけでもない。

でも、いったいこれ以上、他に何が必要なんだろうと思うような、どこまでも幸せな夕暮れが、そこにあったからだ。

桟橋を出て、さらに丘の上から夕陽を眺め、一旦ホテルに戻った。

1時間ほどして、そろそろ夕食を食べに行こうかと、外へ出て、あの町並みを一望する校舎の前に立ったとき、息を呑んだ。

小さな家々に温かい光が灯った、幻想的なバンガーの夜景が広がっていたのだ。

派手な輝きはなく、どちらかといえば、地味な夜景だった。

だけど、そこには、イギリスの田舎町の当たり前な暮らしがあって、人々の息づかいがあちこちの家から聞こえてきそうな気がした。

たぶん、その瞬間だったと思う。

いままでの人生で縁もゆかりもなかったこの町が、きっと、一生忘れることもない大切な町へと変わったのは。

その旅の神秘こそ、僕が心のどこかで、求めていたものだったのかもしれない。

このバンガーという町は、もう僕にとって、どこにでもある普通の町ではない。

人生のたった1日、幸せな時間を過ごすことができた、とっておきの特別な町なのだ……。

夜風の冷たさを感じながらも、僕はしばらくの間、そのバンガーの夜景を静かに見つめ続けた。

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