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どうしてかわからないけれど、心に残る「旅の記憶」がある

ふと、10年前にブラジルへ行った旅を思い出して、不思議なことに気がついた。

それは僕にとって、人生で最も日本から遠い国へ行った旅だった。

サッカーワールドカップの観戦をメインに、リオデジャネイロやサンパウロ、さらにアルゼンチンへも入国し、イグアスの滝へ足を延ばした。

地球の裏側でしか出会うことのできない、いくつもの大きな感動を味わえた旅になった。

伝説のマラカナン・スタジアムで観戦したワールドカップの試合も心震えたし、コパカバーナやイパネマのビーチ、そしてキリスト像が立つコルコバードの丘から眺めるリオデジャネイロは絶景だった。

もちろん、はるばる行ったイグアスの滝は、こんなにも壮大な滝が地球上に存在するのか、と驚く圧巻の景色だった。

ところが、その旅から10年が経ったいま、不思議なことに気づく。

心の奥から懐かしく甦ってくる記憶は、感動したはずのそうした光景よりも、特別に感動したわけでもない、なんてことないような風景や時間……そんな小さな記憶なのだ。

10年という年月は、決して短くないはずだ。

ひとつの旅の記憶も、薄れていくものもあれば、残り続けるものもあるだろう。

それでも、珍しかったはずの体験や圧倒的だった絶景よりも、ほとんどどうでもいいような小さな思い出こそ、10年が経ったいまも強く心に刻まれているのはどうしてだろう、と不思議になる。


リオデジャネイロのサッカー少年たち

埃っぽい路地裏に響く、サッカーボールを蹴る音と、少年たちの笑い声……。

いまも遠くから聞こえてきそうなほどに、鮮やかに思い出されるのは、リオデジャネイロで見たそんな光景だ。

彼らは旧市街の路地裏で、裸足のままサッカーボールを蹴っていた。

勢いよく蹴ったボールが駐車中の車のボンネットにぶつかっても、気にすることもなくまたボールを追いかけていく。

その姿は、どこまでも小狡くて、でも自由で、この街の王は彼らなのかもしれない……と思うくらいに、輝いて見えた。

僕にとって、リオデジャネイロで思い出すのは、マラカナン・スタジアムで観たスーパースターたちの美しいサッカーよりも、汚らしい路地裏で靴も履かずにボールを追いかけていた、少年たちのサッカーなのだ。

プエルト・イグアスの町並み

イグアスの滝の記憶は、圧巻だった滝そのものよりも、滝へ行く途中で立ち寄ったプエルト・イグアスという町が印象に残っている。

赤土が剥き出しになった通りに沿って広がる、何もないようなアルゼンチンの町だった。

ところが、帰りのバスを待つ間に、ほんの少し歩いたに過ぎない町の風景が、不思議と心に刻まれているのだ。

スペイン語の看板が連なる大通り、バスの到着を待つ何組かの親子連れ、色とりどりの野菜や果物を売る小さな店、メッシの顔をデザインしたTシャツを並べる露天商……。

プエルト・イグアスの町を歩きながら、僕はこんなことを夢見たことも覚えている。

もしも時間があったなら、ここからブエノスアイレスを目指して旅するのも面白そうだな、と。

サンパウロの東洋人街

サンパウロには、リベルダージと呼ばれる東洋人街がある。

まだかろうじて、かつて日本人街として栄えていた頃の面影が残り、大きな赤い鳥居を抜けると、日本の物品を売るスーパーや日本食レストランなどが並んでいる。

その東洋人街で思い出すのは、ある晴れた日に出会った、ささやかな一瞬の情景だ。

その日、お米や味噌、醤油など、いろいろな日本の食品が並ぶお店を覗いていたら、すぐ後ろから、ご婦人らしい日本語の話し声が聞こえてきたのだ。

「今朝は風が冷たかったですねぇ……」

それを聞いた瞬間、まるで僕は、地球の裏側の日本へ一瞬にして舞い戻ってしまったかのような気持ちになって、思わず後ろを振り向いてしまったくらいだった。

ブラジルの夜を走るバス

サンパウロからリオデジャネイロへ戻るとき、飛行機ではなく、あえて高速バスに乗った。

リオデジャネイロまで約6時間、きっと心のどこかに、ブラジルの風景を眺めなら移動してみたい、という思いがあったのだろう。

しかし、車窓に広がる風景は期待していたほど大したものではなく、単調な丘陵地帯がいつまでも続くばかりだった。

やがて、日が暮れると、見上げた夜空に、いくつもの星が瞬き始めた。

灯りの消えた車内で、座席をリクライニングで倒し、ほとんど寝転がるような格好のまま、ただ見つめた星空は、なかなか美しかった。

そのとき感じた、夜のブラジルの大地を移動しているだけの幸せは、いま思い出しても、わけもなく僕の心を少し温めてくれる気がするのだ。

どうしてかわからないけれど、心に残る「旅の記憶」がある

不思議だと思う。

感動したはずの光景よりも、なんてことないはずの思い出の方が、心に鮮やかに残っているのはどうしてなんだろう、と。

もしかすると、感動の大きさと、心に残る記憶は、必ずしも比例するものではないのかもしれない。

どうしてかわからないけれど、気づかないうちに心に残っていく「旅の記憶」はあるのだ。

そして、その記憶は心の奥の引出しに入れられて、たとえ10年が経っても、引出しを開けば、あの頃の鮮やかさのままに、思い出すことができるのだろう。

子供の頃、机の引出しの奥へそっとしまっていた、きらきらと輝くビー玉のように。

旅の素晴らしさを、これからも伝えていきたいと思っています。記事のシェアや、フォローもお待ちしております。スキを頂けるだけでも嬉しいです!