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『生命と現実 木村敏との対話』

本を読むことは旅と同じと言われます。
旅には様々な目的があります。
今まで知らなかったことを知るため。
日常から離れるため。
新しい自分に会うため。
自分を知るため。
知っていることを確認するため。

知っていることを確認するように、以前から思っていたことを言葉にしていただけたのがこの本です。
文中から引用します。

『生命と現実 木村敏との対話』木村敏×檜垣立哉  2006年

「木村敏は、自己が自己としてあることそのものを、<あいだ>の関係性という視角からと捉えようとする。自己は非自己との<あいだ>のなかで、自然との<あいだ>のなかで、そしてまさに他者との<あいだ>のなかで、まさに自己であることをつくりあげる。そして自己のあることに深く関わる精神の病は、そうした<あいだ>の問題そのものとして押さえられる。二人称的な知の位相に、精神の病は位置づけられるのである。」

「自己とは、そもそも偶然的なものと必然的なものとの<あいだ>を往還し、非対称性のなかから対称性を見いだしてくることにおいて、生命としてイルことができるものである。だが、確率論的な自己とは、すでに現実化され<もの>となった自己のあり方からしか、こうした偶然性を捉えない。」

「<あいだ>とは、出来上がった二つのものの<あいだ>を指し示しているのではない。二つのものが出来上がるときに、<あいだ>そのものが出来事の場において開かれる。<あいだ>という出来事もまた、自己と非自己、自己と他者の交錯の中で、潜在的なものと現実的なものの相互移行によって形成されるのだ。」

「精神医学と哲学というのは、哲学がある意味で、個別的な存在としての<私>やその<こころ>のあり方を根底的に扱うものであるかぎり、そして精神医学が、客観的なデータとして扱いきることのできない他者と自己とを問題とするものであるかぎり、古くて新しい重要なテーマだと思います。」

「音楽の音楽たるゆえんは、つまり猫がピアノの上を歩いた時と違うのは、ある音がそれ以前のたくさんの音を綜合して、その次に来る音を先取りしているという、音と音との関係ということだろうと思ったんです。」

「これはもちろんひとつの錯覚なんだけど、私はピアノしか弾いてないのに、ヴァイオリンもチェロも私自身が弾いているんじゃないかという錯覚が起こるんです。そうじゃないと次の音が出せない。次の音へと向けた私の行動の方向は、合奏全体のそれまでの流れによって決まってくるわけだから。だから、もちろん私は自分の指を動かして弾いているんだけども、指を動かしている主体というのか行為者というのか、いったい実際に音を出しているのは誰なのか、それが不明確になる。」

「自己と非自己の<あいだ>をわれわれはつねに生きている。」

「パラノイアの妄想と分裂病の妄想、この二つを比べてみると天と地ほど違う。要点を簡潔に言ってしまいますと、パラノイアの妄想では自己が他者を完全に取り込んでいるのに対して、分裂病の妄想では、逆に自己が他者にすっかり取り込まれているのです。」

「<もの>として考えれば、デカルトの言う通り二元論でしかありえない。身体という空間的で具体的な<もの>が一方にあって、他方には心という、得体のしれないものだけど、心理学の研究対象になるような<もの>としての心があると考えるとね。しかし心というのはやっぱり<もの>ではないんじゃないか。身体は一応目に見えるから<もの>でいいとしても、心は対象化できる<もの>ではない。心は、考えること、思うこと、感じることだから、<もの>と<こと>でいえば<こと>なんだろうと思うんです。」

「僕らが一個の個体として生まれてくるというのは、生命の自己限定として、生命それ自身から生まれてくる。たまたま今ここにいる私の物理的な身体としての、生命それ自身の自己限定が起こって、何十年かそれが存続して、そこでまたその自己限定が解除されるというか、再び生命それ自身に戻っていく。個体の生死というのはそういうものだと思うんです。」


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