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090.キャンドルライトの向こう側

2003.11.4
【連載小説90/260】


珍しく深夜にこの手記を入力している。

僕が暮らす小さな小屋の窓からは月光が射しこんでいるが、仕事をするには明かりが必要で、デスクの上にキャンドルを置いている。

お気に入りのキャンドルは、半分に割った椰子の実にトランスアイランド産のヤシ油を原料とする蝋を流し込んだもので、パームキャンドルと呼んでいる。

島内各戸のナイトライフの明かりは、ソーラー充電式ライトが主流だが、こと執筆作業や読書時の灯火には微風で揺れるキャンドルの炎が相応しい気がして使っている。

原始の灯り。

そんなイメージが自然に近いところの火にはある。

木から降りたサルは火を得たことで人類へと進化し、他の種と離れて文明化の道を邁進した。

そのスタート地点近くへと回帰できる錯覚をこの小さな灯火はもたらしてくれる。

『儚き島』は、可能な限り自然に近いところで記すこと、つまりは文明から距離をとっての創作に意味があるのだ。

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前回約束した捕鯨論争史の背後に触れる。
それも2世紀ほど昔へ戻って、揺れるキャンドルライトの向こう側に遠い未来を見つめながら…

そう、それが今回の“ラハイナ・ヌーン”的視点である。

動物愛護と文化継承の二元対立から一旦距離をおいて、人類の捕鯨史を客観観察してみることにしよう。

さて、キャンドルの灯りに着目したのには僕なりの伏線があった。

それは西洋の近代文明化とは、明かりをもたらすエネルギー経済の変遷史であるといってもいいからだ。

日々の生活に欠かせない明かりは、発電方法に着目すれば水力から火力を経て原子力へと至るテクノロジーの発展プロセスが大筋となる。

が、それは長い人類史における極々最近の部分。
電力以前の灯りは、全て動植物の生物資源から得られるものだった。

そして、人類がクジラを求めた大きな要素としても、灯りに用いる鯨油利用があったのだ。

捕鯨論争がクジラを食すか否かの対立と捕らえられることで、偏った歴史認識を大衆に与えているように思われるので、近世の捕鯨史を鯨油採取の側面から振り返ってみよう。

実は、先々週ラハイナへ行った際に、僕はカアナパリへ足を延ばしてホエラーズ・ヴィレッジ・ミュージアムを訪れた。

ショッピングセンターの中にある小さなミュージアムだが、音声ガイド端末を片手に写真や往時の展示物を見ながら捕鯨の歴史を振り返ることのできる優れた施設である。

そこで見学者の目に最初に入るのが古めかしいランプとオイル。

そう、米国における捕鯨の最盛期であった19世紀前半、その狙いは鯨油にあった。

何10トンもの体重を誇る大型クジラが哺乳類でありながら海中生活可能なのは、その厚い皮下脂肪による浮力のお陰だといわれている。

一頭のクジラを仕留めれば何千ポンドもの鯨油が採れる訳だから、当時の捕鯨はハイリスクハイリターンのエネルギー産業だったともいえるのだ。

おまけにこの鯨油は、非常に良質の油だったことから、ランプはもちろん、石鹸やマーガリン、工業用潤滑油としても重宝されていた。

では、なぜ米国の捕鯨産業は19世紀中頃以降、急速に衰退したのか?

ひとつは1849年に始まったカリフォルニアにおけるゴールドラッシュ。
一攫千金を夢見て、捕鯨者たちの多くが船から降りて金鉱捜しに身を転じた。

さらに大きな要素が石油の発見。
1859年にペンシルベニアで石油が発見されて以降、鯨油の価格は下落し、採算の合わないビジネスとなってしまった。

ところで、米国の捕鯨中止は1940年である。

その後も細々とではあるが、捕鯨は続けられていて、その中では牛肉の代替品としての鯨肉奨励の動きさえあった。
もっとも、長い鯨食文化を持つ日本人などとは違って彼らの口にはあわなかったようだが…

どうだろう?
捕鯨史を前々世紀までたどることで、そこに動物愛護と文化継承という対立軸とは違った構図が見えてくる。

変遷するエネルギー源とそれを活用する人間側の生活変化だ。

そこにおいては「一方の当事者」たるクジラの影があまりにも薄い。
捕鯨目的が鯨油であった人々にとって、クジラはある時期から忘れられた過去の資源となったのだ。

ところが、20世紀中盤に向けて、再び種としてのクジラの存在感が大きくクローズアップされてくる。
現在の捕鯨論争へと連なる複雑な関係の始まりだ。

一旦は海底に追いやられたごときクジラたちが、エコロジーや精神性といった全く異なる文脈の中に、再び浮上してくるのだが、その辺りは別の機会にまとめることにしよう。

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戸外で椰子の葉が擦れ合う音が聞こえるのと同時に、窓から吹き込む微風がキャンドルの炎を揺らす。

灯りが消えるのではないかと手をかざすと炎は落ち着きを取り戻し、再び穏やかに僕の手元を照らしてくれる。

この不安定さがいい。

不変にして安定した光量をもたらしてくれる電灯が、どこか僕らの生活を一定の距離を保って照らしているのに対して、風に揺らぐ炎には一種の親近感、つまり共生の感覚を抱く。

そして、ふたつの明かりの違いは向かう者の心の側にも影響するのだ。

自然の恵みを自らの手で加工することで得る小さな灯りを前に、どこか厳かな気持ちになるのは、無意識のうちにリスペクトの精神が生まれているからだろう。

鯨油を求めて家族と離れ、何ヶ月もの長い航海を続けたかつての捕鯨者たち。

いつ眼前に現れるかわからない相手をじっと待つ粘り強さ。

現れた巨大なクジラを前に、海上という圧倒的に不利な条件のもとで銛を手にする勇猛さ。

時には抵抗するクジラに海に引き込まれ、命を落とす友との永遠の別れ…

キャンドルライトの向こう側にそんな光景が見えるような気がする。

多分、生身に近い人間が行っていた古の捕鯨には、野生動物間の狩りにも似た厳しくともフェアな緊張感があり、そこにも同様のリスペクトがあった。

そして、そこで得られた相手の血肉にも等しい脂質によって照らされた生活が、今、動物愛護をもって反捕鯨を叫ぶ米国の過去にあったことも確かな歴史の事実なのだ。

------ To be continued ------


※この作品はネット小説として20年前にアップされたものです。

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【回顧録】

1853年ペリー来航。
誰もが知る江戸末期の「黒船来航」ですが、ペリーの目的が捕鯨船の寄港地確保のためだったことを知っている人は少ないようです。

太平の眠りを覚ませたペリーの蒸気船でしたが、その後の明治維新と日本開国の舞台を飾ったのはイギリスやフランスで、米国はどこへ行ってしまったのか?

その背景にあるのが1859年のペンシルベニアにおける石油発見だったわけです。

それまで世界中のクジラを採りまくっていた米国が、20世紀後半に日本やノルウェイなどの捕鯨国に対して動物愛護で敵対するようになった背景には「生活エネルギーの変容」があったという訳です。

肉食の米国人が鯨食をしていたら話は違ったのですが、どうやらクジラの肉は彼らの「お口に合わなかった…」というのが歴史の事実のようです。
/江藤誠晃


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