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【物語】-『 FavNir 』-

 乾いた空気と砂埃が混じり合う真夜中の荒野。

 光り輝く満天の夜空とは対称に、地表は薄暗くザラザラと荒れ果てた地面が延々と続いている。辺りは閑散としており、人間はおろか他に生き物らしき気配すら感じることができない。広大で無機質な空間に流れる静寂は、しかし不安を掻き立てるよりもむしろ安寧をもたらすかのように穏やかだ。
 
 だからなのか。不毛の地に独り倒れている少女の姿は、無残な死体というよりもベッドに横たわっているかのように安らかだ。身に纏う衣服は所々が千切れぼろ雑巾のように汚れており、履物もなく晒されている裸足の裏にはいくつもの血豆ができている。体は痩せこけパサついた黒髪から覗くその顔は青白く生気が抜け落ちている。にも関わらず、少女はどこか安息を得たような表情で目を瞑り静かに伏している。
 
 少女人生は地獄だった。親はなく、小さな町にいる親類筋に引き取られるも家では常に厄介者扱い。まともな教育も受けさせてもらえないどころか、真っ当な愛情を受けることすら叶わなかった。物心がついた辺りから彼女は家の主人に捨てられないよう振る舞うことに心血を注ぐ生活を送っていた。機嫌を損なぬよう気分を害さぬよう、常に主人の顔色を覗いながら言われたことに笑顔を作ってはいと答える。
 
 十代に差し掛かる頃には朝から晩まで町の酒場へ働きに出された。家に帰り稼いだ金を主人に渡すことで終わる1日。年齢を経る毎に仕事の内容も過酷さを増していき、息つく暇もない環境下での労働は彼女を心身共に蝕んでいった。
 
 少女の置かれた状況に異を唱える者が誰一人いなかったのは、一重に町に住む人々の生活水準の低さに伴う治安の悪さと道徳の無さ故だろう。過重労働は当たり前な上に、身体の成長が進むにつれて酒場の客たちからは性的嫌がらせを含めた悪辣な扱いを受けるようになった。瞼の裏に涙を隠し、ひたすら耐える毎日の連続。そしてある夜──────。
 
 
「……ぁ」
 
 
 張り詰めた神経がぷつりと切れ、空になった酒瓶を乗せたトレーが腕から滑り落ちると同時に崩れるように床に倒れ込んだ。体は衰弱し口から細かな泡沫を含んだ唾液を垂れ流す少女。その様子を目にした酒場の客たちは、耳まで真っ赤に染まった顔で酒を煽りながら笑い声を上げた。笑い、嘲り、罵り、虐げる。少女の容体を気にかける者など皆無。酒場はいつも通りの、否いつも以上の賑わいを見せていた。
 
 
 
 
“ WWWOOOOOOOOOOOOOOOOOONNN  ”
 
 
 
 
 ────その愚かな嘲笑が神秘の怒りに触れた。
衰弱した体から突如禍々しい紫の炎が噴き出し、瞬く間に少女の全身を激しく覆った。その光景に、酔いどれたちの笑い声は悲鳴へと変わり果てた。恐怖に身震いし一斉に席から飛び上がりテーブルや椅子を倒しながら我先に外へ避難しようとする者たち。その哀れな行動に、その下等な命に、紫色の死は許し(赦し)を与えなかった。
 
 
 建物の中は阿鼻叫喚の地獄絵図。
 ひとりまたひとりと愚者の体に炎が纏わりつき、
 生ある人体をものの数秒で焼死体へと変えていく。
 火の手は瞬く間に酒場中を埋め尽くす勢いで広がり、
 肥溜めに蔓延るウジ虫を捕らえたそばから燃やしていく。
 燃やす、燃やす、燃やす、燃やす、燃やす、燃やす。
 下卑で醜穢な鳴き声と共にその身を惨たらしく燃やし尽くし、
 やがて鳴き声が止むと同時に、紫の炎は消え去った。
 
 
 程なくして、酒場には不気味な静けさだけが残った。
 異変に気が付いた町の住人たちが慌てて様子を見に押し寄せた頃には、惨劇はとうに終わっていた。残されたのは割れた食器に粉々になったボトル、乱雑に倒された椅子やテーブルに焼け焦げた死体、死体、死体、死体、そして死体。
 
 事件はすぐに町中の噂となり、その余りの怪奇さに血相を変えて逃げ出す者も現れた。住人たちが互いに警戒を呼びかけ合う中、とある家の主人が何かを探すように酒場の周辺をきょろきょろと歩き回っていた。
 
 
「……あの娘(ガキ)、何処へ行きやがった?」
 
 
 
 
 


 
 
 
* * *
 
 傷だらけの片足をゆっくりと引きずり無心で歩くこと1時間強。最後の力を振り絞り町からだいぶ離れた場所まで移動した少女は、閑散とした真夜中の荒野に伏した。生気は抜け落ち、起き上がるどころか閉じた目を開ける気力すら失われた彼女は、只々穏やかな表情で眠りにつく。
 
 ああ、これが彼女の死であるならば、何とも悲惨な人生だったと嘆こう。
 だが、これが彼女の死であるならば、何故ここまで逃げてきたのだろう。
 いや、これが彼女の死であるならば、神秘が彼女を選ぶはずがないのだ。
 
 
 
 
“ WWWOOOOOOOOOOOOOOOOOONNN  ”
 
 
 
 
 神秘の声が渇いた大地を極光に照らし、満天の星々を転動させる。
 天上の暗闇に無数の白い点が弧の軌道で線を引き幾重もの円となった。
 それはまるで巨大な輪。不可思議の円環にして、神秘の門。
 眩い光と共に大空に浮かび上がる、竜を象った紫色の禍々しい炎。
 否、禍々しい炎を纏った巨大な竜が、大空にその姿を顕現した。
 竜は地表に伏す少女を見下ろすと、声にならぬ言霊を零していった。
 言霊が少女の胸の上でそっと弾けた途端、突如周囲は元の世界へ帰還する。
 
 
 
 少女が目を覚ます。
 ゆっくりと状態を起こしてみると、先ほどまで衰弱していた体はすっかり健康を取り戻していた。両足で立ち上がり何もない荒野を茫然と眺める。ここ数時間の記憶が曖昧になり軽い頭痛がする中、不意に胸の奥で響く様な“声”を感じ取る。それは恐らく、目の前で起こった何らかの神秘に違いない。神のご意思が自分を救ったのだと。救われた命に意味があるのだと。少女は声に従うままゆっくりと足を前に出し、確かな意志を持って歩き始めた。
 
 
 
 ────その体に、禍々しい紫の炎を灯して。

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