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人気と普遍性について──哲学のテーブル情報発信サイト一覧

哲学のテーブルは、現在以下のサイトで情報を発信している。
活動記録note

 Instagram

Podcast(Apple Podcast)

Podcast(Spotify)

Facebook

Twitter(代表長谷川の個人アカウント)

活動を始めてから、発信する情報の質に合わせてサイトを一通り開設してきた。活動のお知らせはinstagramとFacebook、ある程度のまとまった文章はnote、理事2人がその時考えていることについて話す番組としてポットキャストを開設した。それなりに数が増えてきたこともあり、ここに一覧をまとめておきたい。また、ここ数年情報を発信するにあたって考えるようになったことについて少しだけ整理しておきたい。

人気と普遍性について

展覧会、上映会、ワークショップ、共同制作などの活動を繰り返し「広報」について考えるなかで、わたしは必要とされる情報発信の頻度と、活動や考えることの尺度のあいだにある時間的なズレを認識することが重要だと思うようになった。もう少し開いて言えば、作品やイベントを広報するにあたって現在定着しているソーシャルメディアやホームページなどで宣伝をする頻度は、人間の活動や思考といった営みが持つ時間的な「遅さ」とは必ずしも一致しないということだ。
いかなる種類の広報であっても、その一般的な目的はできるだけたくさんの人に知ってもらうことだろう。知ってもらうために、人はさまざまな謳い文句を並べて工夫を凝らす。イベントにしても作品にしても、主催や制作している本人たちにとっては切実なコンテクスト、開催に至った経緯などがある。そのことを、人にアピールするように宣伝する。自分も新たに産み落とされた作品やイベントの開催を伝えるときには、ある程度は現代のメディアの文法で広報をしなければならない。
しかしわたしは同時に、広報におけるパフォーマティヴな態度/言葉が過剰さを帯びてくると、そこに対して居心地の悪さを感じる。ここしばらく考えてみた結果、そこには主な理由が2つある。ひとつは、(1)推奨されている作品・イベントなどが、長期的に見たとき一体どれぐらいの人に記憶されているのかと思ってしまうこと、もうひとつは、(2)特定の作品・イベントについてあまりにもたくさん宣伝されると、現実に鑑賞したときの体験の強度が弱まる気がしているからである。この2つの理由について少し言葉を足しておきたい。
ひとつ目の理由について言えば、ソーシャルメディアによる瞬間的かつ断片的な広報によって築き上げられるイメージは、結局1年〜3年、あるいはさらにその先に一体誰が覚えているのだろうかとどうしても考えてしまうことに、居心地の悪さの由来がある。作品なり人間の行為が記憶され、その後も生き延びていく時間の尺度は、SNSで流れている時間の速度とは相容れない。10年前、あるいは5年前に世間で名前が挙がっていた作品について、一体今どれだけの人が覚えていたり、日々思いを馳せることがあるだろうか。現在「必見/必読」とされる作品にしても、それを見た後にどれほどその作品について考えたり、人と話したりするだろうか。次から次へと作品が生産され、そのたびごとに瞬間的なアテンションを獲得するための広報が流れるという空間には、結局のところ「人気の原理」しか働かない。つまり、そこには時間の厚みをともなった普遍性の原理がない。普遍性は瞬間的に生成するものではない。それは、作品が観客との交流や翻訳を通して時間をかけながら生まれてくるものではないだろうか。ソーシャルメディアにおける時間の流れと、作品・行為・思考といった人間の営みが生き延びていく時間の尺度は、根本的に相容れないところがある。
2つ目の理由は、ひとつの作品やイベントについて、実物を体験する前にあまりにもたくさんの広報に触れると、現実に体験したときの強度が低下するというものである。この体感にはもちろん個人差があるだろう。しかしわたしは、実物の体験がもたらす感触よりも、話題になっているという事情、SNSでの大量の宣伝によって与えられるイメージが先行すると、むしろあまり見たいと感じなくなる。通常、自分が宣伝をする側のときは、たくさん人の目に触れるように更新の頻度などを考えたりもするが、しかし受け手側の目線で考えてみると、断片的な宣伝に繰り返し触れていけばいくほど、もう実物は見なくていい、あるいは見たくないという気分に達することがある。ここには、過剰な広報が引き起こす情動の触発と、現実に作品を体験するときの質的な違いがあるように思う。

もちろんこの時代に活動する以上ある程度は既存のフォーマットに乗って生きていくしかない。しかし同時に、既存のフローに吸い込まれる、あるいはそれを強化するだけのアウトプットは、もうしたくないと考えている。そんなことが可能なのかどうかはわからない。しかし少なくとも、与えられた自由として、人気の原理と普遍の原理を区別する目を持つこと、体験の質に正直でいることぐらいは、手放さないでいたい。(文:長谷川祐輔)





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