緑のフィーカの会(第4回2024/02/04)〜モモを読んで〜

第4回緑のフィーカの会を開催しました。今回は少しやり方を変えた輪読会という形で事前に ミヒャエル・エンデの名著「モモ」を読んで、時間ということについて少し考えてみました。

モモの感想

まず初めに本を読んで気になったポイントを共有しました。

・謎の少女の存在が気になる。見窄らしい少女がどうして人の話を聞く力を持っていて、どうして彼女だけが時間を奪われなかったのか。
・今はスマホが時間泥棒になっているのでは。
・モモの世界では円形劇場が共同体、コモンズの中心となる存在になっていた。弱いものをケアする強さみたいなのがある。何が求心力になっていたのか。何がモモという存在を生み出すのか。

・空想力が引っかかる。テクノロジーと豊かさの対比。テクノロジーが発展すればするほど豊かになると思い込んできたが果たして本当にそうなのかという問いがある気がした。高価なラジオやおもちゃは頭を使わない。
・子どもはごっこ遊びをしてきたが、大人はいつから遊ばなくなるのか。スポーツは目的が決まっている。純粋無垢に遊ぶことはどこへ行ってしまったのか。

・遊び、ゆとりを持ち続けたいとは思うが。資本主義ではなかなか成り立たない。善、イマココを楽しむは素晴らしいが、果たして実践できるのか。先のことを不安に思う。どうやってメリハリをつけるのか。

・時間を奪われたジジのように1秒を惜しんで働くのはなんとなくわかってしまう。どうそういう社会と折り合いをつけてやっていけるのか。生産性、効率性を求めるが、人間の生活の豊かさでいいのかという問いがある。自分ではどういうあり方がいいのか模索している。

・国による時間の使い方の違いとか話せたら面白い。国民性なのか、文化的な背景があるのか。


テクノロジーは時間を生み出すのか。

多くの人は余白のない日々を暮らしているように思います。AIやロボティックスなど様々なテクノロジーが多くの人の職業を奪うと言われながら、実際はどこも慢性的な人手不足の状態でもあります。テクノロジーは時間を生み出すツールになり得るのでしょうか。

コンピューターは昔は職業の名前だった。時短のためにテクノロジーを使うと余った時間でできるようになった分、違う分野にリソースを注ぎ込むことになる。

豊かな時間を求めて、ゆとりのある生活を目的として技術を見直すと、より良い形でテクノロジーを使えるのではないか。

テクノロジーは自立共生的であることが必要。自分をエンパワーする分にはいいが、いきすぎると人間がテクノロジーの奴隷になってしまう。

テクノロジーは魔法のようなもの。自分のために使う分にはいいか。テクノロジーが目的になってはいけない。

技術を使うという目的だと時間を奪われていく。AIの話をしすぎている。効率化した結果何が生まれるのか。現代はコンテンツがありすぎるから空いた時間をさまざまなコンテンツが埋めてくる。

空いた時間をどう使うか。みんなが隙間を求めていながら隙間を求めていない。暇が許容できない。無駄を愛せない。

ヨーロッパにいる人の時間の楽しみ方は、食事をゆっくり、ガーデニング、働く以外の暮らしの要素がある。そうした暮らしがあるから、そういうことに時間を使える。

自分なりの楽しみをどれだけ持てるか。フィーカもそういう場である。

アジアは全体的に受験勉強で見るように、競争社会を生きている。日本の古き良きは、時間のゆとりがあった。江戸時代に外国人が見た日本人はみんなが笑顔でゆとりがあったという。明治以降に成長史上主義を輸入しすぎてしまったのではないか。

コンビニは便利だが、物質的な結果しか得られない。本当はプロセスの中に喜びがあるのでは。電化製品も便利だが、作る方が楽しいというようなことがある。

現代は昔より便利になったとおそらく多くの人が同意するが、だから幸せになったという人は多くないのではないか。

時間に追われるのは今だけではない。過去も未来もきっとそう。

時間を費やして頑張ることに過大評価されているのでは。時間をかけただけものが良くなるわけではない。タイムパフォーマンスには嘘がある。

ディープワークという本では休日は仕事をしない。仕事をしない時間が大事。そうした時間が新しい気付きを生み出す。休んでいるときに仕事が生まれる。そうした時間の使い方が資本主義との折り合いの一つではないか。


資本主義社会と時間の折り合いをどうつけるのか。

資本主義社会と時間の折り合いをどうつけていくのでしょうか。現実的にはなかなか資本主義から脱するということも難しそうで、その折り合いをどうつけていくのか、大きく脱線しながらもそのヒントを手繰り寄せていきました。

ビジョンが必要なのでは。働く意義のような。そうしないと時間を節約してもその時間で成長を追い求めてしまうのでは。

資本主義社会にとどまらない。仕事の奴隷になることは昔からあった。奴隷制度など。やめない程度に仕事を効率求める。考える力を奪って、ボーナスを上げて、成果や営業利益を求めるのが現代式。

働きながら、自分の時間を自分でマネジメントする。自分の時間をささげてしまわないようにすることが必要。

それは理想的だが、意識で時間のマネジメントはできないのでは。サラリーマンはできないし、たとえ社長でも難しそう。

自分が自分で養える力が必要では。庭で畑をするなど。そういう方向に舵を切ることが必要では。移住して豊かに働いている人もいる。田舎的な暮らしは実はスローでもない。意外と生活的には忙しい。

ベーシックインカムがあっても我々は働き続けるのか。

楽しんで働く。自分が時間をかけてやりたいことのためであれば、頑張れる。受け身な時に時間を奪われていると感じる。

遊びと仕事が交わる部分というのがある。そういう時間が増えていくといい。研究は関心の赴くままできる、大人の遊び。仕事の中に遊びが入っている。

社会人は社会最適化が働くので、どうしても受動的になってしまう。

車は昔はいろんな形があった。合理性ができて同じ形になる。合理が進むと創造性が働かなくなる。

不便益という概念がある。不便だからこその、創造性が生まれる。自分がいじれる余地が必要。


余白をどうやって作り出すのか。

様々な誘惑を乗り越えて我々は時間的な余白は生み出すことができるでしょうか。

広告やショート動画など隙間を埋める因子が強い。余白を作るようなデモがあってもいい。広告のない電車があっても面白い。ストレスフリー社会ができるといい。シンガポールは国が広告を管理している。

スマホがなかったら何をしてたのか。そもそもない時代は、余白があったのか。意識的には余白を作れない。スマホがなくても余白を埋めようとしてくる因子はおそらくたくさんある。

相手を操作しようとする力(時間泥棒)が多すぎる。スマホではなく、紙の本で読んだので、その分時間を奪われることは少なかった。

人間の構造的に余白を作るのは難しい。暇と退屈の倫理学では、定住以前の遊牧民としての生き方はまさに旅をするように生きることだったし、創造性に溢れていた。そうした情報キャッチアップ能力が残ってしまっているので、余白に耐えられない。

自分が何をして楽しいのかをきちんと知っておく必要がある。受動的なものが増えすぎている。何が幸せに感じて、何をしていたいのですか。と問うことが大事。

飲食やっている友達は、丁寧にご飯を提供するお店に勤めていたけど、お店の採算が取れなくなり、やがてコスパを求めるようになった。そうしたこだわりがなくなるのが許せなくなって辞めた。外部環境ではなく、自分の軸を持てるのか、譲れないものを持つことが大事。

みんなは余白を与えられた時に何をしますか??

・山登り、丸太から船を掘る。味噌漬け。

・自分が知らないことを知る。出会ったことない人に出会う。その国の考え方を知る。

・研究をする。植物を育てる。機械と組み合わせて。旅行したい。

・旅行したい。行きづらいとこ。街づくりとか文化とかを知りたい。人の豊かさ。住んでる街、営み。地域の文化が根ざしているものを知りたい。

余白は創造性、知的好奇心に行き着く。そういうものを育てていけることが大事では。

教育が重要になってくると思う。ただ、現状子どもたちが忙しすぎる。学校の中に入って大人たちが探求に関わるような機会を作っていることもある。一方でスマホで子どもを黙らせるという事例もよくある。創造性を育むような環境は、どうやって作れるのか。

大人が楽しく、ワクワクする姿を見せることが重要。

塾産業はなかなかやらかしている。21時に電車で遊ぶ子どもがいた。塾産業は時間泥棒。エリートにならないといけないという価値観を吹き込んでいる。

子どもは遊ぶことが仕事。スポーツはプロになることが目的化している。部活もあまりに勝つことに焦点が絞られすぎている。大学のように部活とサークルがあればいい。

何にもしない合宿というものがある。体育館を開放してあとは何をしてもいい。創造性も生まれるし、地域のつながりもできる。

イベントに必要な労力を作らないということも主催者にとっては大事。偶発的なものを楽しむ。ホテルとゲストハウス、旅行と旅の違い。


時間があるとは何か、一日を長く感じる時は。

そもそも時間があるとはどういうことなのでしょうか。時の流れは常に一定なのでしょうか。

コーヒーを飲みながら、読書をしているとき時間を長く感じる。物理だと、動きがあることが時間があるということ。静止の状態は、時間が長くなる。人間による時間とは。心が動く時では。心が感じるもの。時間を感じる時に心がある。

プロテスタントの国が時計を作っている。ギリシャ語だと時間を表すクロノスとカイロスがある。客観的な時間と主観的な時間。

主観的な時間を大事にできるといいかも。カイロスを大事にできるといい。

カイロスとは朝明るくなったら起きて、暗くなったら寝るというような自然のリズムに合わせていくようなことかもしれない。


チェックアウト(まとめ)

最後に今回の議論の感想をまとめて今回も締めたいと思います。

・自分が何をしていて楽しいのか。個人的なことが重んじられる空気が大事。個人が幸せを感じない限り、社会の幸福がない。個人の幸せを応援する

・自分の中に資本主義と時間との関係をどのように落とし込むか。やらされているときがよくない。自分のやりたいことをやる、そういう時間を作っていく。自分の時間を生きる。

・時間に追われることは受動的、自分が何をやりたいのか。自分のWillは失わないように。会社だからこそできることもあるが会社に適合してしまうことが往々にしてある。一人でできないことが多いが一人でできることもやっていくことも大事。

・余白とは何か、創造性、知的好奇心に繋がってくるという点は視野が開かれた、カイロスを大事にすることは余白で何をするかという点では大きなヒントになりそう。

・時間は幸せの議論につながる。全てを能動的にするのは難しいけど、一瞬でも時間泥棒から間を置くこと。大人の遊び、遊び方を工夫してみたい。普段と違う行動をとること。いつもとちょっと違う毎日を送ってみる、生活に取り入れてみる。楽しみ方を知っている人と一緒に何かをやるのもいいかもしれない。茶道の楽しみを知っているなど。

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