希薄な繋がり

休み明けとか言って一月も書いていないのに、読んで頂いている方が何人かいらっしゃるのが忍びない。ありがとうございます。

一時間ほど前に不登校の自助会を終えて、そのままこれを書いている。今日はその前から外出をしていて、止めるかどうか迷ったのだが、この機会を逃すと次の一度しかないので、予定より一時間程ずらして出向いた。

ああいう場に赴くと、いつも同年代を意識する。子ども同士だと、言葉を交わさずともその場に居合わせるだけで、希薄な繋がりが生まれるのだと思う。いや大人でも起こるだろうけれど。学校のクラスの雰囲気だ。或いは一二時間ほど一緒に過ごしただけで、「なんとなく」自分と同じ属性かなと感じる人とかね。言語化しずらいが。チャットでやり取りするのと、通話でやり取りするのと、相手の身体がその場にある状態でやり取りするのとでは、密度が違う。場に居合わせると、否が応でも繋がってしまうのかもね。ザイアンスとかそういう意味ではない。

少し遅いとはいえ、夏休み明け後初の開催だし、新しい方も何人かおられるかなと思いながら行くと、ちょうど一人初参加の方が。会話の内容から恐らく私と同年代。しかもとてもお話しが上手で、疲れているし途中参加で、あまり話も入ってこないだろうなと思っていたのだが、その方の話だけは何とか頭に入ってきた。「自分の人生は、ずっと演技を見ているような気分」と言っていて、とてもよく分かる。日常の一挙一動人間という生き物を演じているような「私」という役割を演じているような、そんな感覚が心のどこかに絶えずある。縁があれば一度お話ししてみたいな。打ち解ければ話しが合うと思う。そのおかげで少しは頭も働いて、こうして書けている。

私は誰かに何か伝えるなら、声よりも文章の方が性に合っていると思う。文章でなくとも、それ以外の方法が。口頭の会話だと、一言一言が誤ってはならない選択肢のような気がして、考えがまとまらない。ここに書いているような事をすらすらと話せればいいんだけどね。

11月に引っ越すことを伝えると、揃ったように全員同じ反応をするので笑ってしまった。真意はどうか分からないし、立場が立場なだけによいしょされていただけかもしれないと思っていたが、なんだかんだ言って必要とされていたのかなあ。終わりの方、次の開催予定は11月の18日に、と話していた際「その日付だと、その頃にはもう居ないかもしれない」と告げて、9日に変更していただいた。なんだか主催の方にも無理をさせてしまったようで申し訳ない。次回は送別会になるらしいが、「もう一度会いたいよね」と言って頂いて、それに皆さん頷いて下さって、それだけで十分です。

人が不幸になるのは色々な理由があるが、一番は孤立することだと思う。物理的な問題ではなく、心の中で。健全かそうでないかは置いておいて、SNSはそのことに関して大きな存在意義があったんじゃないかな。副作用も大きいけれど。とにかく私は「目に留まった相手を孤立させたくない」という無意識が強いので、もしそういった状況に陥っている人があの中の何処かに居たら、私に対して薄くとも繋がりを感じていたら嬉しい。こういう物理的な場は大事だなと改めて実感した。

新潟にいた頃、ちょうど最後の学校の日、下校時にクラスメイトから引き留められてお手紙をもらった。優等生で、そこまで仲も良い訳ではなかったのだけれど、とても嬉しかった思い出がある。私も関係性が薄い相手に、自分から伝えたりアクションしないだけで、色々と思い巡らせている事は多いが、そういう事を知らせるのはきっと相手が居なくなる時ぐらいだろうな。普段から伝えていたら、きっともっと違う関係になるのだろうけれど。

流石に疲労が酷い。この辺りにしておこう。とにかく倦怠感に見舞われながらも行った甲斐はあった。若いからとかまけていると、会いたい人にも直ぐに会えなくなるかもしれない。



そういえば、引っ越しの話をしている際、ファシリの方が話を端折りすぎて、何故か私が「野田先生のお弟子さんとお付き合いすることになって引っ越す」みたいな話になっていた。なぜ。