1度だけ、1度だけでいいから愚痴を聞いてください。1度だけ…… 菩薩行キッツイ!!

(ついでにアドレリアンとして生きるのもキツイ…)

個人であれ国民であれ、他人の権力の範囲内にとりこまれたと感じれば、おおっぴらであれ密かにであれ、ただちに抵抗に向かって動くでしょうし、すべての鎖から解き放たれるまでその抵抗は終わらないでしょう。

(中略)われわれの精神器官は、外からの圧力には内からの対抗圧力で応えますし、服従し忍耐することで報酬をもらっても満足することはなく、かえって権力の手段を用いて自分の方が強いことを立証しようとするのです。

アドレリアン第 21 巻第3号(通巻第 56 号)「共産主義と心理学」A. Adler著  野田俊作訳

愚痴を書くのは中々、躊躇いがある。外から見ていて滑稽というか、気分のよいものではないし、何より理屈を付けていっても、その理屈に対する反論も自分から出てきてしまうので、その反論に対する反論も考えて、さらにその反論も考えて… などと考えている間に嫌になってくる。

理屈と軟膏は何処にでも付けれられるのだ。正しい事を言っているように思われるかもしれないが、それが(倫理的に)正しくない事を知りながら(論理的に)正しいと思えるように言うというのは、中々骨が折れるというか何というか… はぁ…

グチグチと愚痴を言うのは(ここはダジャレです)嫌なので、この一回で言いたい事を全て書き出して後は、おさらばする。主観性が入るし、言葉は悪意を持って相手を非難しているので、読んでいて気分のよいものでは無いと思います。愚痴なので仕方が無い。が、ただ感情に任せて相手を罵るようなものは私らしくないので、その分だけ色々と考えに筋道も着いたと思う。


日頃から(正確には母との諸々があってから)、菩薩行を意識している。菩薩行というのは簡単に言うと、

自分の瞋恚手なずけず
敵に向かえば逆効果
それゆえ慈悲を軍として
自分を正す菩薩行

こういうような事だ。瞋恚とは怒りのことである。これは全くもってごもっともだと思うし、私もこうして生きてゆきたいのだが、それだと愚痴の愚の字も言えないので、今回は私も救いの対象となる迷える衆生の一人だと自覚して、いち凡夫として書いてみる。


昨日、SNS上で始めて暴言を吐かれた。その人とは袂を分かったばかりで、もう暫く関わる事はないと思っていたのだけど、相手の方から話がしたいと連絡が来たので、もう少し様子をみたいと答えた。そこまでは良かったのだが、どうやら様子をみたいという事が相手にとって重荷になっていたらしく、こちらの思いなどを聴く前に1人で思い悩んでしまい、その防衛機制として私に暴言を吐いたのだと思っている。自動思考ですね。

彼は以前、私に劣等感を抱いていると教えてくれたのだが、どうやら私の尊敬している人物にも同様の気持ちを抱いていたようで、少々やりにくい。やりにくいというのは、ただの悪口ならばものの好き嫌いで済む話なのだけれど、どうにも彼の場合態度が煮え切らないというか、ルサンチマン的に、どちらかと言えば私の注意関心を引く為の行動のように思える。

因みに「彼は」と書いているが、実際にモヤモヤしているのは3人ほどで… まあいいか。

私的感覚(価値観)に反する事をされる以外にも、陰性感情(ネガティブな感情)が湧くことがあるという事に気づいた。最近よく、誤解を受ける。誤解を受けるという事がこんなに不愉快だということを、始めて知った。いや、不愉快というのは少し違うな、虚しくなる。

例えば、私が相手に何かを言ったとする。相手はそれを聞いて、あることを答える。疑問文で尋ね返すのではなくて普通文で答えるかぎりは、私が言ったことを「理解した」と思っていいと思うのだけれど、それがどうにも私が期待した答えと違っている。

私が期待する答えが正解という意味ではなくて、対話にしてみると、「話が噛み合っている」とか「噛み合っていない」とかいうことはあるはずだ。そのはずなのだが、ある人の場合、こちらが何を言っても「それは違うんじゃない?」とか「話がズレてる」といった答えが返ってくる。それも1回だといいけれど、対話が何往復かして、そのつど、「それは違うんじゃない?」という答えが返ってくる。こうして対話はずっとすれ違っている。これは猛烈にやりにくい。

しかも、相手の答えの内容がいつも見当外れだ。こういうのは、精神分析家なら、「抵抗」だと言うだろう。つまり、私が言うことを理解したくないという事になる。だから、そこを気にしてどうするのだと思うような、目的のない細かな部分に大急ぎで話を逸らす。しかし、あることを理解したくないということがわかるということは、そのことをほんとうは理解しているからこそ、「これは理解したくない」と思うことができるので、いちおうは、私が意図したとおりのことを理解していることになる。

しかるに、返ってくる答えはそれとは全く違うことだし、また普段の言動を見ていても、私が意図したことを理解しているようには思えない。精神分析家だと、「無意識は理解して、意識はその理解を抑圧し、防衛機制として別の話を組み立てた」というようなことを言うのだろう。

この見立て方は今回のケースだと9割ほど合っていると思うのだけれど、そうなってはもうまったくどこもアドラー心理学ではないので、抵抗だという説明は一旦保留にしておく。相手も一応アドラー心理学の事は知っていたんですけどね。

ではなんなのかと言うと、その人たちは、私の言うことを誤解しているのだと考える。抵抗ではなくて、単なる誤解だということだ。これは、精神分析派とは違って、きわめて常識的でわかりやすい考え方だと思う。ただ、問題は、その誤解を改めず、ずっとその線上で考え続けることだ。私のほうからみると話が食い違っているのだが、どうも本人たちは食い違っていると思っていないようだ。

つまり、その人たちは、一貫して私の話からあることを「理解」し続けている。そうでなければ、私の話が途中で矛盾してきて、あるところでついてこれなくなるはずだ。それなのに、何往復か対話が成り立つということは、彼らなりに筋の通った解釈があるのだろう。アドラー心理学的に考えると、彼らなりの自己・世界理解のシステム(別名「激しい思い込み」)があって、すべてのできごとをそのシステムを介して解釈するので、なんであれその人なりに筋の通った物語として理解されるのだろう。

その思い込みのおかげで、彼はこちらがいくら理性的に発言しても、全て感情的に受け取って、傷ついて、傷ついたせいでまた感情的になる。こちらが出した白米に、自分でコーラをかけて不味いと言っているようなものだ。コーラをかけるのを辞めればそれで済む話なのだが。

何故、感情的になるのか、何故傷つくのかというと、これは単純で、相手に劣等感があるからだ。劣等感があると、何を言われていても嫌味に聞こえるようになる。

たとえば私が相手のある言動でもって傷ついたとする。「傷ついた」というのを、「陰性感情をもつ」とか「劣等感を感じる」とか、あるいは「ルサンチマンを感じる」と言い換えてもよい。なぜ劣等感を感じたかというと、相手によって「劣等の位置」に貶められたと感じたからだ。劣等感を感じる前は「平等の位置」にいて、相手と私との共同体に私は所属していた。

そのとき私は、「あの人は仲間だ」とも感じ、「私は能力がある」とも感じていた。そういう関係を横の関係という。横の関係にいるとき、相手と私は協力していた。ところが、相手のある言動でもって私は「劣等の位置」に落とされて、所属に失敗したと感じる。そのとき私は、「相手は仲間ではない」とも感じ、「私は能力がない」とも感じる。私は主観的に、「相手が上で自分が下」と感じる。こういう関係を「縦の関係」という。

その時点で、相手が「縦の関係」の「優越の位置」にいるのかどうか、実はわからないが、私が勝手に「縦の関係」を築いて、自分は「劣等の位置」にいると思い込み、「相手が上で自分は下」と感じてしまうのだ。

そこで私は、所属を回復するために、相手よりも上に出ようとする。ここが間違いなんだ所属を回復するためには、縦の関係をそのままにしておいて、相手に対して優越の位置に立とうとしてはいけない。そんなことをすると権力追求になってしまう。しかし、多くの人は、不幸にしてその道を選ぶ。

たとえば、私は相手が間違っていることを証明しようとする。「相手は仲間でない」という縦の関係をそのまま置いておいて、「相手は冷静に物事を見る能力がない」ということを証明することで、「私は冷静に物事を見る能力がある」ということを証明しようとする。つまり、相手を劣等の位置に貶めて、自分が優越の位置に立とうとする。これが権力追求、あるいは「権力への意志」だ。

私が劣等の位置を補償して優越の位置に立とうとして、たとえば相手が間違っていることを証明しようとするまでは、相手はまだ横の関係にいて、相手と私の共同体に所属しているかもしれない。ところが、私の言動で相手が傷ついて、「あの人は仲間ではない」「私は能力がない」と感じると、相手にも縦の関係が生じ、劣等の位置に落とされてしまう。

そこで、それを補償するために、「あの人は仲間ではない」はそのままにして、「あの人は能力がない」だとか「あの人は逃げている」ということを証明することで、「私は能力がある」「私は逃げていない」ということを証明しようとすると、相手も権力追求をはじめ、私と相手の間に権力闘争がはじまる。こうして、相手と私は協力することをやめて、競合することになる。

 
最初に、なぜ私は相手の言動に傷ついたのか? それは、私の中のある価値観について、私が「劣っている」と相手に言われたように感じたからだ。たとえば、「あなたは嘘つきだ」と言われて傷ついたとしたら、「人は正直であるべきだ」という価値観が私の中にあって、それについて自分が劣っていると証明されたと感じたから、だから傷つく。

もし私が、「人は正直であるべきだ」と思っていなければ、ケロッとして、「そうかもしれないね」と受け流せるかもしれない。しかし、どんな人も何らかの価値観をもっていて、自分がその価値観について劣っていると言われると、劣等感を持つ。ここまではある種の自然現象だ。

問題は、「自分が相手よりも下になった」ととらえることだ。そこで、相手を自分よりも下にすることで、自分が上に出ようとする。これを「権力追求」という。ある人は、このような動きを、「自分がワンダウンされたら、相手をワンダウンして、自分がワンアップしようとする」と表現していた。こういう動きをするのは、そういう動き方を、子ども時代に身につけたからだ。

相手の言葉に傷ついた私が、相手をワンダウンして自分がワンアップしようとするのが権力追求であり、ワンダウンされた相手が私に仕返しをしてワンアップしようとして権力追求はじめてしまうと、権力闘争になり、交代にパンチを繰り出しながら、いつまでも闘争は続く。ここから抜け出すには二通り方法がある。

一つ目は相手をワンダウンするのではなくて、私の子ども時代のことを整理しないといけない。つまり、私の最初のワンダウンが、実は仮想的なもの(思い込み)であること、それはワンアップすることでもっては補償できず、縦の関係から抜け出して横の関係を築きなおすこと、言葉を換えると競合関係から抜け出して協力関係を築くこと、あるいは「差別被差別」から抜け出して「平等」を築くことでもって、はじめて解決できる。

どのみち「共同体感覚」 と「自己執着」 とか、「縦の関係」と「横の関係」とかいうのは、たえず移り変わる一時的な現象なのだ。どんな人にも共同体感覚で行動している瞬間と自己執着で行動している時、縦の関係と横の関係で行動している瞬間がある。自己執着で行動しているときには、縦の関係の中にいるわけで、多かれ少なかれ劣等感がある。すなわち陰性感情が自覚されている。

逆に言うと、怒りとか不安とか後悔とか、そういう感情があるときは、縦の関係の中にいる。それを目安にして、権力追求の方でなく、協力の方に抜け出す。これは、理解と練習がいる。共同体感覚も、横の関係も、今この瞬間に絶えず築けるよう努めなければならない。

たとえば相手の言動に傷ついた私が、「なんでそんなこと言うんだよ!」と言うと、「言い方は悪かったかもしれないけど、そんな言い方はないんじゃない?」と相手は反撃して、権力闘争がはじまるかもしれない。かわりに相手が、「その言い方、傷つくんだけど、わざと言ってる? それとも気がつかないで言ってる?」と言えば、「あ、ごめん、気がつかなかった」と言って、すんなり所属が回復するかもしれない。

最も、ここに至るまでの縦の関係の期間が長ければ長いほど、所属の回復は遅くなり、「あの人は仲間ではないのではないか」と思われながら、話つづけられる事になる。相手に謝る余裕も無さそうな時は、今回のように一時的に相手の陰性感情のはけ口になるか、相手との関わりを断つしかない。二つ目の方法はつまり、相手と縁を切るという事だ。


自己・世界理解のシステム(別名「激しい思い込み」)を指摘、もしくはその周辺を問うような事を言えば、大抵の人は抵抗する。別の方向へ話を逸らしたり、嫌味だと感じて私は傷ついたと訴える。つまり、それ以上は考えない。考えないから、自分の間違いに気がつかない。そうして、いつまでも間違った自己・世界理解に執着する。永遠と自分でコーラをかけ続けて、不味いと言い続ける。ということは、私のほうの対策としては、相手のコーラを持つ手… じゃなかった、脳を止めないことだ。

昔、私が中学時代の教師が、母に「あなたの育て方が間違っていたから、息子さんはこうなってしまったんじゃないんですか?」と言ったそうだ。母は「あの子はあの子の人生を自分で決めて自分で選んだのだから、あなた方にどうこう言われる筋合いはありません」と答えた。するとその教師は「いやそれは間違っている」と言う。その後は何を言っても「いやそれは間違っている」しか言わない。

稀に「いや間違っている」以外の何かを答えても、将来がどうとか、自分の子ども時代がどうとか、何かにつけて話を逸らして、彼らの私的論理(この場合は「普通」というべきか)の外側を観ようともしない。出ようともしないのではなくて、「観ようとも」しない。

こういう頭の固い人間の頭をどうやってかち割ることができるのだろうか。鍵は、答えを出させない事にあるような気がする。つまり、私の言ったことを、簡単に理解してもらっては困ると言い続けることだ。しかし、「そうじゃないんだよな」くらいのことを言うと、「ああ、違うんですね。じゃ、こういうことですね」と、また間違ったことを言う。「いや、それも違う」というと、「そうか、じゃあ、こういうことですね」と、また違うことを言う。

これでは果てがないので、もう一工夫して、「すぐに答えてはいけない」と言ってみる。そう言うと、答えないだろうが、考え続けることもしないかもしれない。そしてすぐ答える時と同じ答えを出して、やはり頭は止まってしまいそうな気がする。いいさ、それならそれで。諦めもつくし、そうなってしまえば静かだもん。

私がどれだけ理性的に伝えても、相手は自分の私的論理のフィルターを通して話を解釈するのだから、何を言っても、相手の信念(物語)に反したことを言うことになってしまって、相手も私も不快感を持つ。そもそも理解しようともしない人も居る。相手はずっと嫌味を言われていると思い続け、私はずっと、こちらが言った事を曲解される。指摘すると、真正面から抵抗される。

だから、私の投げかける言葉は、虚しく空中に消えていく。最近そういう人ばかり話しかけて来て、疲労が激しい。消耗性うつ状態なのかな。なんだかやる気をなくしている。もう何も言いたくない。何も言いたくないから関わらないようにしているのに、関わらないようにしていると「アイツは逃げた」と言われる。人と関わると、私がどれだけ気を付けていても、大なり小なり相手を傷つけてしまう時があると思うと、誰とも関わりたくないとも思ってしまう。最近は、好きな人達のブログを見ることだけが救いだ。


人は死ぬもので、それは別にびっくりすべきことではない。死ぬまでに関わる人間全員と仲良しにもなれないもので、それも別に驚く事ではない。死ぬまでは生きているから、生きている間の工夫をすればいいと、まずさしあたっては思う。しかし、その間に何が起こるかはけっこう不確定なので、緻密にリスク管理をしようとすると、過剰に他責的になってしまったり、過剰に自責的になってしまったりすることになる。だから、「まあ、なるようになるさ」と構えて暮らすしかない。「なるようになるさ」と思えるためには、私の場合には、どうしても仏教が必要で、「仏さまがよいようにしてくださる」と思うのでないと、そう思えない。

実際、いままでの人生はそうやってやってこれたように思う。初め(それがいつであれ)の予定とはまったく違った場所にいる。だって、人生で一番最初に願った夢は水戸黄門だもの。つまり、計画なんてほとんど役に立たなかったということだ。けれども、運命にもてあそばれてこうなったのでもなくて、その都度その都度の、もっとも的確だと自分では思った判断の結果、気がついたら予想外のこういう場所に来ていたということだ。人の知恵だけを判断基準にするなら、それを満足に思うことも不満に思うことも出来るのだろうけれど、「これが仏さまのおはからいなんだ」と思うと、ありがたく感謝していただくしかなくなる。それは、これから先の人生についてもそういうことだ。

人生に問題がないわけではもちろんなくて、アドラーが言うように、次々と新しいライフタスクがやってくるハードルレースのようなものだ。あるライフタスクをようやく乗り越えると(たとえば母の介抱が終わると)、次のライフタスクがやって来る。そうしてあたふたしているうちに、私自身も誰かに介護してもらわないと暮らせなくなるだろうし、やがて死ぬ日が来るだろう。そのすべてが、仏さまの祝福の中で起こっているのだと観念することが、私の場合には必要で、そうしないと(今回のように)不必要な悪あがきをして、自分にもまわりの人にも迷惑をかけそうな気がする。

まあ、こういう生き方をしてきたから人に迷惑をかけなかったというわけではもちろんないので、たくさんの人にたくさんの迷惑をかけた。しかし、人生とはそういうもので、自分なりにせいいっぱい誠実にふるまっても、なお人には迷惑をかけるものなのだ。これは「私は無実だ」と主張しているのではなくて、およそ普通の人は誰でもせいいっぱい誠実にふるまって生きているが、それでもなお周囲の人に迷惑をかけないではおれない、という「人の業」について言っている。今回仲違いした相手もそうだ。彼は彼の出来る範囲で精いっぱい誠実に振る舞っていて、私もそうで、その結果がこれだ。

アドラー心理学風にいうと、私的論理という見地からは、各々の人に筋の通った理由があるし、多くの人々の私的論理は共通論理(良識)からそんなにかけはなれたものではないので、悪意でもって行動しているわけではない。しかも他の人の私的論理とは違っているので、どんなに誠実にふるまっても結果的に人を傷つけてしまうのが、人間の定めというものだ。


「善業(善い行い)」と「悪業(悪い行い)」と、もう一つ「無記業(どちらでもない行い)」というものがあって、ある行為を行うことによって自分と他者の苦が減るなら善業といって、善いものだと考える。一方、自分か他者のいずれかの苦が増えるなら悪業といって、行うべきでないものであると考える。そのどちらでもない「無記業」という物もあって、これはある方は苦、ある方は楽という感じで、善悪つけがたい時に使われる。そしてその時の状態や事情なんかでも決まるのではないかと思う。

困ったことに、愚痴という物は時と場合で、善業になったり悪業になったりする。例えば、今にも自殺しそうな人間に面と向かって愚痴を言うのは悪業だが、今にも自殺しそうな人間と一緒になって、お互いに共通の嫌いな人間の愚痴を語り合うのは、相手と自分の苦を減らすので善業だ。最も、愚痴を言われている事を、言われている人が知ってしまった場合は、その人が苦しむので、無記業辺りかな。まあ、世俗諦なんて多かれ少なかれそんなものだ。だから、人はその時その時で精一杯誠実に生きていると信じている。私は性善説論者なんだ。その分、どんなに誠実にふるまっても結果的に人を傷つけてしまうのが、やはり人間の定めだ。

私が今書いているこれも、この先の人生の為の応急手当と思って、無記業辺りでお許しいただけないだろうか。もし本人が見ていたら伝えたいのだが、私はあなたの人格は好きです。ただ、あなたのする行為は嫌いです。人格と行動は絶えず分けているので、相手そのものを嫌いになる事は無いのだけれど、行為が積もりに積もると、人格まで嫌いになりそうなので、その時はそっと離れる。

それと同様に、私は相手が自分に向かって怒りの発露をしてきてくれた事を嬉しく思っている。私が受け身となって相手が救われるとまではいかなくとも、気が休まるのならそれでいい。その分こうして新たな発見もあったし、考えに道筋もついた(代価として昨日の夜は散々だったのだが)。ただ、今回の件で、今後お付き合いする事はもうないだろうし、相手のパンチも、もう受け取る気はないという事だ。

もし、仏教もアドラー心理学も知らないような人間に同じ事をしていたら、その人はむきになって言い返し、それに反応して彼も言い返し、ワンダウンワンアップの無限の論争と陰性感情のループが続いただろう。


それにしても正しさというのは切れ味が鋭すぎて、ときどき心底嫌になる事がある。え? 誰の話かって? 誰でしょうね。もしかしたら自分かも。理屈と軟膏は何処にでも付けられるってね。ある人も言っていましたよ。だから自分が楽になるような理屈を付けるのも、まあいいんじゃありませんか。これはひとりごとですよ。


チベット仏教は、少なくとも私にとって反論の余地のない完成された大統一理論だ。「縁起と空」「自業自得」これは「正しい」。私の苦は私が招いたもので、改善すべきは常に自分で、私の考えは正しい訳ではない。これらは正しいので、返す手立てがない。返す手立てが無いと、こうなってしまった時、少しばかりキツい。

野田俊作先生が以前「自分が正しいという事を証明できれば、正しい自分は優れていて、間違っている相手は劣っていると思えるもの」と言っていた。私はこの言葉にずっと縛られていて、だから時々何も言いたくなくなる。正しさなんか証明したくない。これは洗礼された「かのように」ではあるが、正しいと思う。正しいが、今回ばかりはこれを承知で書いた。うーーーん、劣等感の補償の罪で地獄行きかな。

今ちょうど、ドルズィン・リンポチェさまが日本に来ていらっしゃるのだが、あの方々の凄さが身に沁みる一日だった。一先ず、これで一応のピリオドを打つことにする。

この記事を書くにあたって、周囲の方々にとても勇気づけられた事、ここにお礼申し上げたいと思います。不束者ですみません。