「高いところにいる人」

日記なのか雑記なのかよく分からないものです。好きな文を書く人の話。


一昨日買い物へと出かけたら、目に見えて色々と値上がりしていた。今度おすすめのネットスーパーの記事でも書こうか。

連日ショックなニュースが飛び込んで来るが、公然の場だと何も言いたくないので、鍵付きのブログでも別で立てようかな。そうすれば私に関心のある人だけ観に来る訳だし。野田先生の登山用個人ブログがあったのだが、恐らく消えてしまったようで、しょんぼりしている。

人生で始めて線状降水帯という物を体験した。私の住んでいる所はギリギリ直撃を免れて、河川の氾濫も土砂崩れも起きなかったのだが、水難は経験した事が無いし、ちょうど家に1人だったので不安だった。何事もなくて何より。


それはさておき。最近になってようやく、自分が若い男性なのだと自覚できるようになった。いや当たり前のことなのだが、ずっと自意識が30代後半ぐらいだったので、なんだか自分が「若い」という自覚がなく、かといって老いているというほどでもなく、その中間辺りを寄る辺もなくさまよっていた。

思い返してみると、私が関わってきた人は殆どが20代で、どこか(或いは激しく)厭世的で哀愁がある。個人的な感覚で「大人」という概念の中の一つに「哀愁」があるので、あの感じが自分には出せなくて悔しがっている。後10年ほど生きたら、少しは出るかもしれない。いや、無理かな。

野田俊作先生の物もその一環なのだが、人の個人的な日記やらブログやらを見るのが好きだ(ですます調統一以外)。その中でも、今年の初めごろからずっと「この人の文章好きだな~」と思っている人が居て、最近はその人の書き物ばかり読んでいる。読んでいると、自分の中のユーモアが引き出される感覚があって、楽しや嬉しやという感じだ。

ある日を境に全て消えてしまったので心配していたら(この文を書いている最中に一部復活していた。イヤッター!)、新しく違うところで日記を始めていてホッとした。

確か、文章に一生懸命にならないように書いていくというような事を言っていて、内容も本当に「日記」なのだけれど、小気味よくて独特の魅力がある。自分もこの文体にちょっと疲れを覚えてきた気もするので、やはり鍵垢ブログを作ろうか。兎に角、最近はその人の日記を頼りに日々を過ごしている。なんだろう、色々と書いたけれど、単純にカッコイイのかもしれない。

その人以外にしても、私と関わりのある人は、ある日突然消息を絶ってもおかしくないような人ばかりなので、この人の事を覚えていたいなと思った人は、得た情報を頭の中でプロファイリングしておく。紙に書くこともある。

別に何か目的がある訳ではなく、そうする事で、その人達は、私の人生の登場人物になる。例えこの世を去ってしまっても、彼らは私の中で生き続ける。「こういう人が居た」という事を、私だけでもいいので覚えておきたい。

野田先生が過去に「自殺も所属の為の方法です」とサラッと言っていて、この言葉がずっと耳に残っている。物語は死を持ってして終わるものだと思っていたのだが、そうでないと気づいた。考えてみれば当たり前の事で、「死」以上に劇的な転換期は無い。死というものは物語の完結ではなく、それらを紡ぎ直す権利を他者へと与えることだ。

日記というものは、絶えず移り変わる「私」という現象の一部を、丹念に切り取って残した物のように思う。些細なことでさえ、そこにはその人の生活があって、時間軸がある。そんな大層な事を考えずに軽く書いていても、私はそう感じとってしまう。なんだろう、「なまもの」だから好きなのかな。血が流れている感覚がする。


好きな文章だと先ほど上に書いた友人(知人と呼ぶべきか迷ったが、お友達になりたいのでこう呼んでみる)に、「高いところにいる人」と呼ばれた事がある。

誤解を招かないよう書いておきますが、「見下している人」とかそういう意味ではなくて「すごいなと見上げているような感覚」を、私に対して抱いてくれていたようです(え?私に?)。ありがとうございます。

似たような感覚を、自分も覚えた事がある。12歳の頃、今の私と同じ年齢ほど不登校の子がTwitterで哲学やら政治云々の話をしていた。

当時そこそこ右派的(保守って感じじゃなかった)で政治的だった私は、政治の方はある程度理解できたのだが、哲学の方はチンプンカンプンで、「知らない人達が知らない言葉で知らない事を話してる。よく分からんが凄い」という感覚があった。

今思い返してみると、西洋哲学なんてそういうもので、ただの言葉遊びに過ぎない。楽しいは楽しいのだけれど、私のような凡才は、意味のあるんだか無いんだかよく分からない事を、よく分からなくなるまで話しているだけだ。少なくとも人を幸福にする点においては、東洋思想の方がよいと思う。理屈をこねる楽しさは捨てがたいけどね。

私が12歳の頃思っていたのと同じように、私に対して「賢い」と思ってくれている人は、私の知っている部分だけつなぎ合わせてそう思っているだけで、実際は違うかもしれないよ(事実そう)。私の尊敬している人だってそうだし、全員そうだ。人は自分の見せたい部分しか見せない。見せない部分にこそ、本当の「めんこい」その人が居るかもしれない。

反対に自分を卑下している人は、自分自身の知っている部分だけをつなぎ合わせているのかもしれない。「自分はこうだ」と決めなくてよいし、きっと決まらない。ブレても揺らいでもいいし、そうなるのが普通だ。

なぜなら「私」は絶えず変化する現象の一部に過ぎないから。色々な「部分」の集合体が私なんだ。何処かに固定された「私」があるのではなく、PCのようにパーツや部品の組み合わさったものとしてあって、そのパーツが絶えず流動していく集合体が私なんだ。しかも、どのパーツや部品がいつ入れ替わるかは、自分のタイミングでは決められない。

と、いう事で、もしご本人が読んでいたら、私は「高いところにいる人」なんかじゃないので安心して?ください。いつも素敵な文章を書いてくださってありがとうございます。人生丸ごと応援してます。


あ、そうそう、昨日始めて同人誌という物を購入して、今日届いた。これを書き終えたら読む。成人向けのBLなのだけれど、四捨五入すれば成人しているのでよしとしよう。これも読んでいる日記の方の影響なのだけれど、漫画なんて読むのは数年ぶりなので楽しみだ。読み終えたら感想でも書こうかな。

ある程度安定した(死ぬまでするかどうかも分からんが)収入が得られるまで手は出さないでおこうと思っているものが三つあって、ファッションと、BLと、レコード(オーディオ関連)だ。どれか一つでも手を出すと、良い意味で人生を誤りそうな気がするので、グッとこらえている。と、いいつつも、抑えきれてなかったりするのだが。


書いていて1つ気づいたことがある。自分は人の「哀愁」にたまらなく弱い。