思慕、恋路

今日は不登校ラボの研究会の日なのだが、情緒的にそういう気分でもないし、企画書も書こうかどうしようか迷って、結局書かずにこの日が来てしまったので、今回はパスする。二回連続で見学というのも少し気を遣うしね。しかし、500円がもったいないな。まあ、新聞社への貢献だと思えば全く構わないのだが、今月はかなり厳しいのでね。卵2パック分ですよ。


ここ最近の日々を思い返すと、なんだか新しい人間関係が目まぐるしく出来ていって、少しお疲れモードだ。何度も言うが、こちらから関わりに行ったのは、2人だけである。2人だけなのだが、縁を作ったのは私でもあるので、結局は全員自分から関わりに行ったようなものなのだが。

極めて個人的な事で恐縮だが、恐らく人生で初めて失恋という物を経験した。これをそう呼んでいいかどうかも分からないので、正確には「失恋のようなもの」なのだが。それにしても人間というのは、目的が達成できた時よりも、目的が達成できなかったときの方が、より美文(口)調的に語るようになるね。失恋であれ、離別であれ。


人間関係というのは、かくも難しい。いくら地図で事前に調べても、現場に行くと全く違った光景が姿を見せる。人生で初めて誰かに恋をしたのが確か10の時だったので、あれから7年で多少なりとも進歩したかと思いきや、どんぐりの背比べという感じで、誠に修行未熟だ。最もその初恋の人は俳優さんだったので、実際に関わる可能性は皆無だったのだが。

私の好きな言葉に「あたうべくんば憎まん、さなくばせめて愛さん」というのがある。これはもともとは「あたうべくんば愛さん、さなくばせめて憎まん」という、ローマの詩人カトゥルスの恋愛詩の一節で、彼に対して冷たくなった恋人に対して、愛することがもはや許されないのなら、せめて憎もうという意味だ。

これを、ルネサンスの詩人フランソワ・ラブレーがわざとひっくり返して、人生というものはつらいことも多いのだけれど、憎むことはできないのだから、それならせめて愛そうと言ったのだ。そう、この世は苦に満ちているが、憎んだところでどうなるものでもない、それだったらせめて愛して暮らそうと、私も思う。

自分の人生を振り返って、苦しんだり、悲しんだり、悩んだりしている時を思い返してみると、結局のところ相手の行いが気に入らない事だった。母の不倫相手の時もそうだし、母が亡くなる事もそうだし、今回もそうだ。つまり、自分の思う通りに世界を動かしたい訳だ。なおも未熟である。

死別は言葉を組み替えても解決できない世界の本質的な構造だとして、人間関係の方をもう少しそれっぽく言えば、私の私的感覚(価値観)に反することを、他の人がする(言う)ときに苦がある。笑って済ませられるほどの小さな違いは苦にならないが、絶対に妥協できないほどの大きな違いもあって、そういう場合にはただその人のことを考えるだけで苦になる。本当に修行未熟である。


アドラー心理学は価値相対論の心理学で、「全ての価値観は、絶対に正しい訳ではない」と考える。仏教も価値相対論で、それを空性という名前で呼ぶのだけれど、アドラー心理学と違うのは、勝義諦と世俗諦の二本立てで考えるところだ。

勝義諦は、すべての価値観を否定する。「敵」だの「嫌な奴」だのというのは虚妄分別であり戯論である。そんなものにこだわっているかぎり、人間は苦を解脱できない。だから、一切の価値の対立は空であると悟って、いかなる価値観にもこだわらないようにしなければならない。

私はアドラー的に生活したいと思っているので、価値相対論者だ。「子ども達は暴力でもって教育すべきだ」と本気で主張する人々が居たとして、私は彼らと仲良くなりたいとは思わないし、許すことはできないだろうが、彼らの存在を認める事はできる。認める事はできるが、私の中にある価値観とは余りにも相反するものなので、陰性感情(ネガティブな感情)が生まれる。

アドラー心理学は個人の主体性を重んじる。もし、どうしても陰性感情を処理したければ、アドラーは相手の価値に立ち入ってはいけないと言うので、相手の「子ども達は暴力でもって教育すべきだ」という価値観を変えようとする事はできない。

そうなると、残されたただひとつの解決方法は、「子ども達を暴力でもって教育すべきではない」という自分の価値感(私的感覚)を捨てることしかない。しかし、単に陰性感情をなくすためだけにそこまでする気はない。

人間には、絶対に譲れない価値観というものがある。そこを譲ってしまうと、人生全体を捨てなければならなくなる。そういう価値観について他者と対立したとき、アドラー心理学は救済能力がなくなる。その価値観というのは人の数だけある訳だから、一生、ことあるたびに陰性感情を感じて不幸になるわけだ。このような事が無限に繰り返され、かくして人生は苦に満ち溢れている。こうして文字に起こしてしまうと、平凡な結論なのだが。

仏陀は「衆苦を解脱する」ことを約束された。その方法は、一切の価値観(分別)が空(実体のないもの)であることを認めることだ。つまり、「よい」とか「わるい」とかの価値判断から離れる事だ。この教えは、原理的には完全に理解できるのだけれど、実践せよと言われると、とても無理だ。ここが非瞑想者の限界なのかな。


枯れたおじさんになって同年代の子達の恋路を応援するつもりだったのに、いざ自分がその渦中の中に巻き込まれると、全くと言っていいほど立ち行かなくなるのだと気付かされた。

別れというのも縁だと思っているので、深刻にはなっていないのだけれど、少しセンチメンタルになって、岡村孝子の「夢をあきらめないで」という歌を口ずさんでいた。実は応援歌ではなくて失恋ソングなんですよ。そう知ってから歌詞を読むと、菩薩さまのような気持ちになって、なんとも治療的だ。