「げんにびさんへの返信」アドラー心理学の魅力

ずっと天才だと思っていた方から、コメントを頂いたので戦々恐々としている。頑張ります。

げんにびさんから「アドラー心理学の魅力とはどの辺でしょうか?」というコメントが来て、私如きに魅力を伝えられるかなと心配なのだけれど、兎に角やってみる。力不足な気がするが。

と言っても、アドレリアンではない私がアドラー心理学を語る事を、多分野田先生は許されないと思うので、殆ど引用になってしまう。アドラー心理学の全体像を分かっている、なんて口が裂けても言えないし、私的な解釈を入れずに正しく伝えるためにはその方が良い。万人が魅力的だと思える部分って多分無いと思うので「私が」魅力的だと思った部分を。

「アドラー心理学」と言ってもそれを独自に進化というか、自分の思想だったり概念を入れている方がおられ、しかもそういう方々が本を書き、世に出しているので、酷く混乱しているのだけれど、ここで紹介するのは「野田のアドラー心理学」であることをご了承いただきたい。

私は別に「アドラー心理学オタク」ではなく「名越康文 野田俊作オタク」なので、人様に魅力を伝えるなんて何十年も早いのだが、私が知っている部分だけでも記載しようと思う。

げんにびさんなら、きっと「心の理論は全て仮設であり戯論である」という事は既に理解されていると思うので、その前提で。

「アドラー心理学」とは何か?

理論的な部分では、1個人の主体性、2目的論、3全体論、4社会統合論、5仮想論の5つの基本前提理論、共同体感覚の思想。で成り立っているのだが、この辺は別に調べれば幾らでも出てくるので割愛。

興味があるのなら、ここが分かりやすくまとめられている。


まず「アドラー心理学」とは何か?という話をしなければならないのだが、今現在「アドラー心理学」と呼ばれている物は、「アルフレッドアドラーの」心理学ではなく、「アドラーとそれを脈々と受け継いできた者たちの」心理学の事を「アドラー心理学」と呼ぶ。

日本に一番始めに「アドラー心理学」を持ち込んだのは「野田俊作」という精神科医で、彼はアドラー心理学を学ぶ以前は主に行動療法を学んでいた。当時はまだ「認知」のついていない行動療法で、たとえば系統的脱感作療法のような、古典条件づけにもとづく治療だった。

様々な心理療法を学ぶ過程で彼は、バーナード・シャルマンの「精神分裂病者への接近」という著書に出会い、その理論のバックボーンがアドラー心理学である事を知り、そこからアドラー心理学へのめり込んで、シカゴにある、アルフレッドアドラー研究所に留学、帰国後の1984年に日本アドラー心理学会を設立。現在の日本で広まっているアドラー心理学に繋がる。

日本に持ち込んで来たのが野田俊作な訳なので、当然、そこに至るまでの系譜も現在の日本のアドラー心理学に多少なりとも影響している。

アドラー心理学第二世代、つまりアドラー直系の弟子の殆どが、ナチスの迫害の犠牲になってしまい、正直に言って、今でもアドラー心理学が残っているのが奇跡なぐらいなのだが、アドラー心理学第二世代の中でも著名な者が、ルドルフ・ドライカースと、ハインツ・アンスバッハーである。

第三世代はドライカーズの弟子であるバーナード・シャルマン、そしてハロルド・モザック、オスカー・クリステンセン等が有名だ。

第二世代のアンスバッハーは人間学派で、第三世代のシャルマンは現象学の影響を強く受けている。また、アドラー心理学は心理家だけの物ではなく、一般にも広く開かれた物なので、個々の職業などでも、発展の仕方が結構変わっている。以下は野田先生の日記である。

私の師匠のシャルマンは精神科医だし、現象学・実存主義の研究者で、その方向への偏りがあるが、クリステンセンは教育学者で、認知主義への偏りがある。現象学と認知主義では、根底的にものの見方が違う。秋に来るイヴォンヌは、ドライカースにも師事したが、主な師匠はドライカースの弟子のエリック・ブルーメンタールだ。ブルーメンタールは「バハイ」という宗教の信者で、彼のアドラー心理学には、あきらかにバハイの思想の影響がある。

私のアドラー心理学解釈は、和尚(ラジニーシ)の影響や仏教の影響があるが、たとえばアドラー心理学基礎講座などのアドラー心理学の公的な伝承の場では、意識的に排除して、シャルマンから受け継いだものをできるだけ忠実に次世代に伝えようとしている。スピリチュアル・ワークでは、思い切り折衷しているが。

本でアドラー心理学の全体像が学べるが、それは偏っている。もっとも、世界中どこへ行って誰に学んでも、偏っている。いくつかの偏ったアドラー心理学を学んで、そうしてはじめて現在のアドラー心理学の「振幅」が見える。振幅の全体が見えて、はじめてアドラー心理学とアドラー心理学でないものの区別がつくようになる。区別がつくようになってはじめて、アドラー心理学のありがたさが本当にわかるようにもなり、アドラー心理学を伝承してきてくれた人々への恩が、自分の直接の師匠の系統以外の人々をも含めて、身にしみるようになる。

世界のアドラー心理学の中には、かなり感心できない解釈もある。たとえばドイツのアドラー心理学は、あまりにもフロイト側に偏ってしまって、私などはとても辛抱できない。では、ドイツのアドラー心理学を学ばないかというと、そんなことはないので、『ドイツ語圏アドラー心理学雑誌』 (Zeitschrft fuer Individualpsychologie) も定期購読して、すくなくとも毎号の目次は目を通すし、面白そうな記事があれば読んでいる。

なぜそんなことをするかというと、ドイツのアドラー心理学もアドラー心理学の振幅の内部だと思うからだ。こうして、ドイツのアドラー心理学も視野の範囲に入れておいたおかげで、ドイツとアメリカの真ん中でとてもいい仕事をしているスイスのアドラー心理学を見つけることができた。いいこともあるわけだ。

では、日本の「偽アドラー心理学」は、学ぶ価値があるかというと、あれはアドラー心理学の振幅の外側に逸脱してしまっていて、名前だけがアドラー心理学で実質はアドラー心理学ではないので、学ぶ価値がない。価値がないけれど、ときどきは目を通しておかないと、そういう人たちが書いた本を読んで私のところへ来られる人々がいるので、彼らがどこで間違っているかを知っておく必要がある。これは、かなりイヤな感じの仕事なので、したくないのだけれど、仕方がない。

日本の「正しいアドラー心理学」は大丈夫かというと、振幅の中にはもちろんあるけれど、揺れ幅があまりに小さい。鎖国的で、たとえば私が教えたことを無批判に伝承している。私がどんなに気をつけていても、私の考え方には偏りがある。だから、別の系統のアドラー心理学を学ぶ必要がある。

日本のアドラー心理学がこれからも生き残っていくためには、1)外国語を学んで外国へ学びに行く人を増やし、2)研究者を増やしてアドラー心理学の理論や技術を発達させ、それを国際学会などで発表して外国のアドラー心理学とのすりあわせをし、3)教育者や教育プログラムを充実させて学習者のレベルアップをはかり、4)まだアドラー心理学を知らない人たちへの広報宣伝活動を充実させる必要がある。なんだか、気が遠くなりそうなほど厖大な作業がありそうだが、ま、千里の道も一歩から

https://adlerguild.sakura.ne.jp/diary/2010/06/29.html

臨床心理学の歴史を概観するなら、1910年から1950年頃までは意識/無意識がテーマであり、1950年から1990年頃までは人間の行動と認知が主なテーマだった。

アンスバッハーやドライカースのまとめたアドラー心理学の体系は、時代の影響、おもに認知主義の影響が色濃く見られ、それに対して1990年代以降の第4世代アドレリアンたちは、多かれ少なかれポストモダン思想の洗礼を受けている。野田先生はというと、さまざまな思索の末、最終的には構造主義的な立場を選んだ。

ところでこの「偽アドラー心理学」とはどういった物か。野田先生は厳密に分けておられたけれど、私は、一番無くてはならないのは「共同体感覚」だと思っている。仏教だと「世俗菩提心」や「仏性」がそれに近い。

アドラー心理学はよく「心理学」というより「思想」である。というような事を言われるが、その通りだ。むしろ宗教に近い感覚がある。じゃあ何故「心理学」にしたのかというと、その方が広く後世に残せるからだと言う事を聞いた。

実際アドラー自身も「誰ももう、わたしの名前など覚えていないときがくるかもしれません。個⼈心理学という学派の存在さえ、忘れられるときがくるかもしれません。けれども、そんなことは問題ではないのです。なぜなら、この分野で働く⼈の誰もが、まるでわたしたちと一緒に学んだように行動するときがくるのですから」と言っている。

つまりアドラー心理学が、もう少し私的な解釈を入れて良いなら、共同体感覚が「あたりまえ」になる事を望んでいたのだと思う。「アドラー心理学」や「共同体感覚」という言葉が無くても良い程に。

アドラーの提唱した共同体感覚という思想は、H・ファイヒンガーの唱える「かのように哲学」(仮想論)にも基づいていると考えられ、特定の理想を奉じるユートピア主義ではありません。ユートピア主義は、容易に他の価値観の人々を支配するディストピアを生み出します。共同体感覚を価値の基準とする以上、他人を支配せずに生きることを考えなければなりません。

なぜなら、他人を支配することは共同体感覚とは逆の、「これは私にとってどういうことだろう。私がしあわせになるために私はなにをすればいいだろう」といった自己執着(アドラーの言うIch-gebundenheit)につながるからです。アドレリアンは、自分たちの価値観だけが正しいという考えを退け、善だと信じるある価値観が本当に広く共同体の役に立つのか、常に自らに問い直します。「不寛容に対して寛容であってはならない」とする共同体感覚は、非常に厳しい思想でもあるといえるでしょう。

アドラー心理学は、どのような価値も仮想であり相対的なものである、という立場をとりますが、ニヒリズム(虚無主義)とは異なります。アドラーは、個人が他者と共に社会に所属して暮らしていくために必要な価値観として、「共同体感覚」を提唱しました。これもまた仮想論からいえば唯一無二絶対的なものではない、と理解しながらもアドラー心理学は敢えて、心理療法やカウンセリングに欠かすことのできない価値的概念として「共同体感覚」を中核に据えます。


多様な価値観を是とする現代の風潮にあってなお、人間が幸福に生命を営むためにはどう生きるべきかについてアドラーは「共同体感覚」を通じて私達に問いかけ続けているのです。

https://adler.or.jp/%e3%82%a2%e3%83%89%e3%83%a9%e3%83%bc%e5%bf%83%e7%90%86%e5%ad%a6%e3%81%ae%e5%9f%ba%e7%a4%8e/

共同体感覚に関しては、野田先生程学んだ人でないと、明晰に語りえないような気がするので、あらぬ誤解を招かない為にも、この辺で控えておく。私が共同体感覚を少しだけ理解できたのは、学会誌に記載されていた「人間であること」という以下の随想である。


Yes,butと、治療的枠組み

野田先生は事あるごとに「心理療法とは騙しの技術である」という事をおっしゃっていた。アドラー心理学の心理療法は、「病気を治す」事を目的にしておらず、クライエントが自分の人生を扱いやすくなる事を目指す。

「この症状さえなければ、私は幸福に生きられるのに」という考え方がある。これにたいして、アドラー心理学は「症状があってもなくても、それとは関係なく健康に生きる方法は学べます」という線を譲らない。つまり、困難事例が少なく対応できる幅が広い。

薬物療法では、不幸な病人を不幸な健康人にすることはできるかもしれないけれど、幸福な人間にすることはできない。これに対して、心理療法は、不幸な病人を、健康人にはできないかもしれないけれど、幸福な病人にすることはできる。それで心理療法学(精神科では精神療法学という)を専攻して、やがてアドラー心理学を見つけて、70年代の後半から90年代の前半まで、アドラー心理学の本を読んで読んで読みまくった。いまはもう飽和したので、アドラー心理学の本は新着英文雑誌以外は読まないで、仏教の本を読んで読んで読みまくっている。

https://adlerguild.sakura.ne.jp/diary/2012/08/19.html

先ほど「アドラー心理学のカウンセリングは、クライエントが自分の人生を扱いやすくなる事を目指す。」という事を言っていたが、あれは半分正解の半分間違いである顕教で、アドラー心理学の密教は違っている。

では密教とは何かというと、クライエントにアドラー心理学を教える事である。もっと正確に、忌憚なく言えば「共同体感覚を持ちましょう」というのが「顕教」で「劣等コンプレックスを封じる」というのが「密教」だ。

劣等コンプレックスとは「それはわかっています。けれども私は○○なので、○○することができません」という類の事なのだが、これはちょっと露悪的で、傷つく人も居る気がするので、私はもう少し上品に、というか希望を持って「人に優劣が無い事を全員が理解する事」だと思っている。

つまり、アドラー心理学の(正確にはアドラー心理学"だけ"の)カウンセリングとは教育である。もっとも、この段階はまだ魔法使いではなく祈祷師であり、スピリチュアリティを交えるとさらに進化する。実際、アドラー派の手練れのカウンセラーは、結構な割合で何らかの信仰を持っている。

だが、教育というのは自分が正しいと思っている物に対して相手を導くという事なのだから、共同体感覚の意に反する。そこで「治療的枠組み」という物がある。これは「一方が教える人、一方が学ぶ人」ということについて、双方が合意していることだ。アドラーがもっとも、深いところで望んでいたのは「人が人を道具として扱わない」という事なのだから、当然のことである。

「私は教える人であり、あなたは教わる人である」ということについて、双方が合意していなければならない。これが成り立っていない場所でアドラー心理学の話をしてはいけない。これは、アドラーやフロイトの時代にはきわめて自明のことであったので、あまり言葉にされたことがなかったが、臨床心理学が大衆化するにつれて社会的な問題になった。「なぜ私は相手の行動の背後にある構造を分析する権利があるかというと、私と相手の間に合意があるからだ」と私は考えている。だから、相手の合意がない限り、たとえ評論家的にであっても「あの人のライフスタイルは」などという形で話題にしてはいけない。これは生徒さんたちにもきつく言いつけている。

https://adlerguild.sakura.ne.jp/diary/2016/12/31.html

「教える人」がなにを教えたいかというと、アドラー心理学を教えたい。なぜなら、アドラー心理学を知らないと問題は解決しないからだ。どうやって教えるかというと、「教わる人」がかかえている具体的な問題を、アドラー心理学の原理に遡って分析し、アドラー心理学の公式をあてはめて解答を探し出すことでもって教えたい。

「教える人」は自分の頭で考えることはしない。自分で考えて解けるのなら、アドラー心理学は要らない。自分の頭をとりあえず横に置いて、アドラー心理学の公式でもって考える。物理学の応用問題を解くのと同じことだ。公式とその使い方を知らないと問題は解けない。あるいは古文を読むのと同じだ。文法と単語を知らないと文は読めない。こうして、どんなときでもアドラー心理学だけを信じて、それに頼って問題を分析し解答を考える。

https://adlerguild.sakura.ne.jp/diary/2016/02/23.html

ね?宗教に近いでしょう。もっとも、神霊との交流はないが。

野田先生が言うには、アドラー心理学は「心のきれいな人」を作ろうとしている。その点で宗教に似ている。ただ違うのは、世俗的に言えば「人格神を認めない」し、哲学的に言えば「価値観が理性的である」ので、宗教ではなくて思想である。

前者は、宗教を持っていない人にはわかりにくいことかもしれないが、仏教であれキリスト教であれ、神仏は頭で考え出された抽象物ではなくて、現に生きておられるものだ。アドラー心理学は、そういう意味での神仏は想定していない。後者は、共同体感覚は理性でもって考えれば納得できる価値観だが、宗教の価値観は理性を超越したもの、理性では手の届かないものだ。とのこと。

さて、野田先生はよく「騙しの技術」という事を言っていたが、それはどのような物か、例えばこういう物がある。

神経症的策動 (neurotic maneuver)という言葉をご存知だろうか。これはあまり人聞きのいい物では無いので、気分を害してしまう方もおられるかもしれない。

神経症者が精神科の外来を訪れるのは、不安なり抑うつなり強迫観念なり対人緊張なりというような症状が続くからなのだが、精神科に来る前に、周囲の人から助言をもらっているだろうと思う。

これはたとえば不安な人に、「そんなに心配しなくても大丈夫ですよ、恐いことは起こりませんよ」と言ってあげる人もいるだろうし、対人緊張の強い人に、「深呼吸でもしてリラックスすればいいですよ」と教えてあげる人もいるだろう。患者も、それらの助言はもっともだと思う場合もある。しかし、実行しない。

どうして実行しないかというと、「わかっているけれど、○○なので私にはできない」からだ。「○○」に何が入るかは、人ごとに違う。こういう言い方を通称「イエス・バット Yes, but」と呼んでいる。
健常人は、神経症的な症状が起こっても、誰かが助言してくれて、それがもっともだと思えば、「イエス」と言ってその助言に従うので、精神科に来る前に症状は軽快してしまうのだろう。ということは、精神科に来るような人は、周囲の人の助言に「イエス、バット」を言い続けてきた人だろう。

こういう患者に、「常識的な」助言をしても意味がない。患者から見て助言の内容がもっともであればあるほど、「イエス、バット」を繰り出して抵抗する。下手な精神科医だと、次々と助言を繰り出しては、次々と抵抗に遭って、だんだん自分の無能さを感じるようになる。一方、患者の方は、医者の助言に抵抗することで、自分の重症ぶりをますます確信するようになる。患者がなぜそんなことをするのかは、心理学の流派ごとに解釈が違うのだが、アドラー心理学の場合は、社会的な責任を免れるための手段だと考えている。

けれども、私自身は、それは形而上学的な説明であるにすぎないと思う。そうであるかもしれないし、そうでないかもしれないということだ。しかし、そうであるにせよ、そうでないにせよ、患者が医者のあらゆる助言に対して「イエス、バット」を出し続けることで自分の無能力を誇示し、みずから作りだした不幸の中に埋もれてゆくだけでなく、医者を含む周囲の人を不愉快にするという現象は、形而下の事実だ。つまり、ビデオにでも撮影すれば、誰でも観察できる客観的な出来事だ。だから、「目的論」のような形而上学とは違っている。こういう神経症的なコミュニケーションのあり方を、《神経症的策動》と呼ぶ。


そこで、心理療法家としては、「常識的な」助言はやめて、「まともでない」助言をすることを考える。たとえばジェイ・ヘイリーは「症状処方」という技法を使うことがあった。強迫的に手を洗う人に、「けっして手を洗うのを途中でやめようとしてはいけません。徹底的に洗うのです」というような助言をしたり、パニックになって失神しそうになる人に、「失神しそうになったら、遠慮せず失神しなさい」と助言したりした。これらの助言は「まともじゃない」ので、神経症者は「わかります」と言えない。そこで、「ええ、どうしてそんなことをするんですか?」と言う。

医者は、「いやならしなくてもいいです。けれども、しないと治りません」と言う。「常識的な」助言を出していた医者は「イエス、バット」を繰り出す患者の「劣位」に立たされがちだが、「まともじゃない」助言を出す医者は患者の「優位」に立てる。つまり、医者がコミュニケーションの《イニシアティブ》をとり続けることができる。そうして、患者に、健康になるための行動を選ばせることができるようになる。これが《対抗策動》だ。

しかし、症状処方は、ヘイリー自身でさえ、荒っぽい治療だと思ったみたいで、それで彼は、有効な心理療法がどのような《対抗策動》を使っているかの研究を始めた。フロイトの「近親相姦願望」だって、アドラーの「権力への意思」だって、ベックの「不合理な信念」だって、神経症者は「なるほど、そうなんですか」とは言いにくい「まともでない」アイデアだ。

私も「まともでない」治療者の一人なので、患者が、「私は不安なんです」と言うと、「それは競合的になっているからかもしれませんね」くらいではまともすぎていけないと思い、「あなたは世界征服をたくらんでいるんですか?」と冗談めかして言うことがある。患者はびっくりして、「世界征服なんかたくらんでいませんよ」と言うだろう。「けれども、なにもかもがあなたの願う通りであれば不安じゃなくなるわけでしょう」と私は言う。「そりゃあ、なにもかもが願う通りであれば不安じゃありません」と患者が言うなら、「ほら、やっぱり世界征服をたくらんでいる」と私は言う。

このコミュニケーションでは、私が《イニシアティブ》を握っている。つまり、患者は《神経症的策動》を使えないので、コミュニケーションの《イニシアティブ》を握れない。《対抗策動》がうまく使えると、治療はもうれつに面白くなる。治療者は上機嫌になるし、患者は「不本意にも」治癒していく。高石昇先生は、だから、心理療法のことを「騙しのテクニック」だとおっしゃっていた。詐欺商法の一種だな。

《神経症的策動》に対して《対抗策動》を使うというのは、患者の抵抗を封じて治療者の意図する方向に行動させる方法だから、悪用するととんでもないことになる。ある種の心理療法技法が医療の外側に流れ出して、たとえばセールス技術として使われたり、会社の労務管理技術として使われたりしているが、それは本物の詐欺商法であり、きわめて非人道的なことだと私は思っている。アドラー心理学だって、そういう場面で使われることは、望ましくないことだ。

いまは本屋の「ビジネス書」の本棚にアドラー心理学の本が並んでいるが、嘆かわしいことだ。外国のアドレリアンには見られたくないね。著者たちは恥じるべきだ。もっとも、あれらの本には、ここに書いてあるほど高度な技術は書かれていないので(だって、著者がそれを知らない素人でしかないのだから)、まあ安全ではあるのだが、それはすなわち書いてあることが実際には無効であるということであって、別の種類の恥ではある。

そういうわけで私は、「治療的枠組み」ということを強調している。たとえば治療者と患者の関係のように、患者が、「私を変えてください」と願っているという条件下でのみ、《対抗策動》としてのアドラー心理学を使う権利が治療者に生じる。そういう条件が整っていない場所で《対抗策動》を含むアドラー心理学の技術を使うのは、詐欺商法が犯罪行為である程度に犯罪行為だと思う。

たとえば、セールスマンが顧客に対して使ったり、上司が部下に向かって使ったり、生活指導の教師が問題生徒に対して使ったりするのは、人道上の問題があると思う。現代の心理療法技術はかなりシャープになっていて、人間の心をある程度自由に操作できる。そのことに神経質になっていないと、非人間的な使われ方がされてしまう危険性がいつもある。

https://adlerguild.sakura.ne.jp/diary/2017/04/24.html

アドラー心理学が嫌われるとすれば、例えばこの上の引用文の「社会的な責任を免れるための手段」という部分だけが強調されて、しかもこれを他者を攻撃する為の道具として、治療的枠組み、もっと言えば、「共同体感覚」というアドラー心理学全体を包んでいる思想を、無視している方が増えているせいだろう。

まぁ密教にも密教たる由縁があるわけで、これに関しても、あまり公の場で言い過ぎると、多分アドラー派のカウンセラーがご苦労されると思うので、興味のある方だけ以下から読んでみて下さい、一週間に渡って「なぜアドラーか」という事を書いています。

「アドラー心理学は、お稽古事である」

仏教とアドラー心理学

アドラー心理学と仏教は親和性がある。似てはいないが親和性がある。もっとも、これはアドラーが意図した物だと思う。アドラー心理学には真ん中に筒が空いていて、そこに宗教を入れられるようになっている。

野田先生は10代の頃に仏教に出会い、医学部を出たのち、自身の仏教理解を確認するために、佛教大学の通信過程に入学。学位は取らずに4年間満了ののち退学 (私の記憶が正しければ)

30代の頃、ラジニーシのコミューンに入り、2013年にガルチェン・リンポチェから帰依戒を授かって、はれてチベット仏教徒になり、日本ガルチェン協会を設立。ドルズィン・リンポチェ氏をお招きし、勉強会を開かれ、チベット語の経典を訳し… と敬虔な仏教徒でもある。

http://adler.cside.ne.jp/database/003/003_01_noda.pdf

そして上記のリンクにある「アドラー心理学の東洋的展開 (1)個人の存在様式をめぐって」という論文が、初めて野田先生がアドラー心理学と仏教を比較した物である。お恥ずかしながら、私の仏教理解はまだまだ甘ちゃんなので、「絶対的全体論と相対的全体論」辺りから、読み解いてその先を考えようとしても知識が足りないのだが、げんにびさんなら多分すらすらと読めると思う。興味があれば是非。

因みにこの論文は3部構成で、その第1部なのだが、惜しむらくは、全て完成する前に亡くなられてしまった。意図的に断念されたのか、力及ばずだったのかは分からない。一応中間報告のような物がここにある。

野田先生は、アドラー心理学は仏教の、仏教はアドラー心理学の、サブシステムになれると言う。生前に「野田先生はアドラー心理学を補完する為に仏教を学ばれたんですか?」と聞かれた際「いいえ、私は仏教を補完する為にアドラー心理学を学びました」と言っていた。

仏教は世俗の人間関係の問題を解決する為の知識は持っておらず、アドラー心理学はその流れを汲んで現代風に「人間関係を」改善できると。つまりアドラー心理学とは「どう生きるか」という答えを得るための物ではなく、ひたすら対人関係に関する技術しか持っていない。

アドラー心理学のことを、ときどき私は「チャチな」思想だと言う。上品に言えば「シンプルな」思想だ。なぜそんなにシンプルでおれるのかというと、《コモンセンス》をアテにしているうえに、さらに使途を限定しているからだ。最近のアドラー・ブームでは、本来の使途をはるかに超えた場所でアドラー心理学が使われているので、そのうち世間からの信用を失うのではないかと心配している。

つまり、アドラー心理学は、1)「相談的枠組み」が成立している人間関係の中で、2)相手を援助することを目的にして、使われることを前提にして作られている。「相談的枠組み」が成立していない場所のことは考えていないのだ。


だからたとえば、どこかに殺人鬼がいて、新聞記者か誰かが私に「あの事件についてアドラー心理学ではどう考えますか?」と尋ねたとすると、私は「本人と会ったこともないし、本人が私に援助を求めているわけでもないので、まったくなにもわかりません」と答えるしかない。「相談的枠組み」が存在しない場合については、アドラー心理学はなにも知らないし、なにも説明できない。もちろん「育児や教育の中で勇気をくじかれたんでしょうね」というようなことを言うことはできるが、本人と会って知った事実ではないので、憶測にすぎない。アドラー心理学は評論家的憶測のためにあるわけではない。具体的に他者を援助するためにある。

あるいは、育児雑誌なり教育雑誌なりというような子育てや教育の当事者が読む出版物があったとして、「どうすれば子どもたちの問題行動に対処できるか」と尋ねてくるなら、私には答えられることがなにもない。そういう企画を引き受けて、「子どもをも勇気づけることです」と書いたとしても、読者にはよくわからないだろう。むしろ、「あなたが子どもの勇気をくじくのをやめることです」と書くべきだろう。しかし、会ったこともない人にそんなことを書くと、アドラー心理学の評判を落としてしまうかもしれない。こういうことは、実際に会って、「相談的枠組み」について両者が合意して、さらに話し合ううちに信頼関係ができて、はじめて言えることだ。

最近のいわゆる「アドラー・ブーム」で、私が違和感をおぼえているのは、まさにこの部分だ。つまり、「相談的枠組み」が成り立っていない場所で、大衆に向かってアドラー心理学をばらまいている人がいる。そういう人は、結局は「問題行動を起す人は勇気をくじかれているのだから、勇気づけなければならない」などという一般論しか言っていないし、そういう一般論には救済力はない。

けれども、困ったことに、世間はそういう無責任な一般論を求めている。そういう人たちの言うことは、仮にすべての言葉がアドラーからの引用でできていても、なおアドラー心理学ではない。アドラー心理学は「相談的枠組み」について合意のある場でのみ使える技術だし、今後ともそうでなければならない。
言っていることはわかりますか?

話を本筋に戻そう。《コモンセンス》を前提にした上に、さらに使途を限定した結果、アドラー心理学はきわめてシンプルなシステムになった。仕事の片手間で学んで、100時間ほどの講義と実習と、1年ないし数年の日常実践で、エキスパートになれる。これにたいして、仏教は壮大なシステムだ。なぜ仏教が壮大なシステムになってしまったかというと、極悪非道のヤカラまでをも含めた「一切衆生の救済」という目標を立てたからだ。相手が望もうと望むまいと、とにかく衆生であれば救済する。アドラー心理学はそんな壮大な夢は持っていない。「相談に来た人を援助する」というのが目標だ。これはかなり違うことなのだ。

チベットのお坊さま方は20年だとか30年だとか全身全霊でお勉強をなさって、ようやく仏教の全体を学び終えられる。私など在家でウロウロしている人間は、とてもじゃないけれど仏教の全体像を知ることはできない。それなのになぜアドラー心理学で満足せずに仏教を信仰するのかというと、アドラー心理学は「相談に来た人をどうすれば援助できるか」ということは教えてくれるが、「人生をどう生きるか」を教えてくれないからだ。

アドラー心理学を学んで「援助者としてどう生きるか」はわかるが、「人としてどう生きるか」はわからない。「ガルチェン・リンポチェにお会いして、どうして生きておればいいかがわかった。アドラー心理学だけでは十分にわからなかった」というのは、こういうことだ。アドラー心理学は、そもそも「人としてどう生きるか」を教えるためにできた理論ではない。これはとっても大事なことを言っているんですよ。


というわけで、私がまともな人間として生きて行くために、どうしても仏教が必要なのだが、仏教のシステムは大きすぎて、私の手に負えない。じゃあどうするかというと、お師匠さまを見つけて、その方に質問しながら暮らすしかないことになる。ガルチェン・リンポチェは私の根本上師なのであるが、なにしろ世界的な大スターなので、個人的な相談などはとうていできない。ドルズィン・リンポチェだと、かなり近くにおられるので、個人的な相談にも乗っていただけそうだが、シンガポールにおられるので、そう簡単に会えない。だからどうしても日本にラマさまに常駐していただく必要がある。そうすれば、年がら年中、困ったことがあれば質問に行ける。ある意味、依存的に暮らすんだ。もっとも、経済的にはお坊さまがわれわれ在家に依存するわけで、互恵的であるわけだ。

https://adlerguild.sakura.ne.jp/diary/2006/12/24.html

アドラー心理学の関心は、ひたすら世俗の人間関係にあって、しかもそのための具体的な方法をたくさんもっている。たとえば「エピソード分析」などがそれだ。仏教もキリスト教もそういう方法を持っていない。仏教もキリスト教も科学以前の時代の思想だから、人間や人間関係を科学的方法論でもって観察して、未来を予測し効果的に操作する方法を知っているわけではない。だから、仏教徒に相談しても、たいした答えは返ってこないし、彼ら同士の人間関係だってけっこういい加減なものだ。

このようにして、仏教だけでは世俗の問題は解決できない。人々が求めているのは、世俗の問題の解決だ。だから、アドラー心理学のない仏教では人々の需要を満たせない。また、昨日書いたように、仏教のないアドラー心理学では、世俗の問題に限っても、解決できない問題がたくさん残る。

https://adlerguild.sakura.ne.jp/diary/2017/11/02.html

昨日は「総論アドラー心理学」と「各論アドラー心理学」の話を書いた。世の中に流布しているのはただの「総論アドラー心理学」にすぎないということは、今回の講座に参加された方々は骨身にしみて学ばれたと思う。では「各論アドラー心理学」を身につければ幸福になるかというと、そうでもない。人間関係上の問題はなくなるだろうけれど、それは単に苦痛を逃れて快楽が得られたというだけのことで、幸福になったということではない。苦行ということが宗教の世界にあるくらいだから、快楽と幸福とは違うものだ。アドラー心理学を含めた心理学が与えることができるものはたかだか快楽であるにすぎない。

西洋のアドラー心理学は、学習者がなんらかの宗教を信じていることを前提にして成り立っている。つまり、アドラー心理学をマスターして苦痛を逃れたとき、宗教とまっすぐに向かい合って幸福にもなれる仕組みになっている。しかるに、日本人は宗教を失ってしまったので、アドラー心理学をマスターしても幸福になれない。

私は長年瞑想をしていたけれど、瞑想は宗教ではない。宗教というのは、1)観察不能な超越者を想定し、2)超越者の教えに従うことを決心し、3)その教えを伝える人たちと一緒に学ぶ、ないし暮らす、ことを意味する。中には人身御供を要求するような邪教も存在するかもしれないけれど、すくなくとも信者は幸福になる。あるいは、そういうムゴいことは要求しないけれど、他宗教に対して不寛容で戦闘的である宗教も存在するかもしれないけれど、信者は自分たちの共同体の中で幸福になる。

私はさいわいにして仏教に出会えたが、仏教は人身御供も要求しないし、他宗教に対して不寛容でもない。ひたすら仏が教えられた道を踏み行うことを要求するだけだ。それは、現代社会の生活に合わないかもしれない。たとえば、経典を床に置かないとか、経典の上に世俗のものを乗せないとか、そういう習慣を守って暮らすのだけれど、物質主義的にいえば、経典だってただの紙とインクだ。しかしそれを仏さまご自身だと思ってつきあうことが、仏教の修行なのだから、そのようにする。なにしろ「各論仏教」だから、そういう生活習慣をひとつひとつ確立していく。そうしてはじめて仏さまがおっしゃっていることの意味がわかる。それはキリスト教でも神道でも同じことだろう。

アドラー心理学は合理的な思想だ。だから救済力は心の合理的な範囲をそんなに出ない。仏教はある部分合理性を超えた思想だ。たとえば輪廻転生だの如来常住だのは合理性を超えている。だからこそ、心の合理的でない部分にまで救済の手が届く。アドラー心理学なんてたかだか合理的な思想だから、宗教に較べればきわめて「チャチ」なんですよ。それにみなさんは手間取っているわけだが、それに手間取るほど、現代社会の常識は狂っているということだ。もしアドラー心理学が社会常識そのままだったら、わざわざ学ぶことはないものね。

https://adlerguild.sakura.ne.jp/diary/2017/08/26.html

今日は一日掛けて文献やら論文やらを、引っ張ってこの記事を書いていた。「野田先生」と書かれたブラウザのブックマークのそれぞれのタイトルが、内容ではなく日付だけなのを改めて恨んだが、まぁ何とか伝えたい部分は伝えられたと思う。

正直に言って、仏教以上の完成された大統一理論を、私も野田先生も知らないので、げんにびさんの興味をそそるかは分かりませんが、まだまだアドラー心理学も発展途上ですからね。これからも応援しております。

仏教から見れば、共同体感覚が成長したアドレリアンなんて、我欲の使い方が巧妙になっただけのことだ。仏の前では、極悪人もアドラー心理学の達人も、同じように迷える凡夫でしかない。それでもしアドレリアンが「私は極悪人よりは仏に近い」と思っているなら、極悪人よりもいっそうタチが悪くて仏から遠いと、仏さまは思われるかもしれない。

ともあれ、もう一度、「人格成長」という言葉を、本来の西洋的な意味で理解しなおす必要があると思う。心理学は「心理道」ではないのだ。アドラー心理学以外の心理学はただの技術だし、剣玉とそんなに変らない。アドラー心理学だって、そこに道徳的お説教がくっついているだけで、それでどれだけ「人格者」になれるかは、いささか怪しいかもしれない。素行の悪いアドレリアンも実際にいるしね。

https://adlerguild.sakura.ne.jp/diary/2015/08/30.html