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Twitterで亡き祖父と出会った話

「忘れなベルト」。

Twitterで「尾崎豊か」と投稿されたこの写真に、僕は釘付けになった。深夜にもかかわらずすぐリツイート。そこで書いたとおり、この看板は僕の祖父が生前に書いたものだからだ。

謎の看板は、愛媛県と高知県の境にほど近い山道にある。Googleマップで確認したら、今もあるようだ。

この国道194号線から脇の山道を崖から落ちないように車でゆっくり通った先にあるお寺が、住職をつとめる祖父の家(であり母の生家)だった。まさかTwitterをぼーっと眺めていたら亡き祖父の仕事(?)に出くわすとは。

うれしくて、思わず祖父についてもツイートした。

終戦後、満州から帰国の途につくはずの列車の中でひとり「星座の方角が違う。この列車は北へ向かっている!」と気づいた20代の祖父。周りは帰国の喜びに沸いていたという。

そのまま2年半の間、シベリアでソ連軍の捕虜になり、奴隷的な強制労働を強いられた。

・・・と、これは最近になって弟からの伝聞で知ったのだけれど、祖父は生前に僕の弟に戦時中の話を克明に話してくれていたらしい。弟いわく「お金が取れるほど面白かった!」とのこと。面白いとは不謹慎だけど、たしかに祖父は国語教師で僧侶でもあったので、話がうまい。

零下40℃の凍てつく世界で、仲間が次々と死んでゆく。2時間前に収容所に入ったばかりの新参者がもう息をしていない。深呼吸すると冷気で肺が凍って死ぬ。栄養失調で死ぬ。凍傷で死ぬ。鬱で死ぬ。木材の伐採で丸太の下敷きになって死ぬ。ソ連兵の暴行で死ぬ(調べてみると日本兵同士の虐待も相当あったらしい)。

同胞が死体の山と化していく中で、祖父は「絶対に生きてやる」と誓った。

さらに教師の経験を活かしてロシア語を覚え、通訳係になった。これは仲間の大半が亡くなった中で間違いなく生きるチャンスを拡大させたと思う。

ある日、祖父と仲間2人は、食料庫の担当にパンを盗み出すよう掛け合った。もちろん、バレたら全員死刑だ。祖父は「排水溝の通る広場の真ん中にパンを落としてもらえばいい」と言って作業に戻る。食料庫の奴がその通りにしてくれるかどうかは分からない。

「アイツなら絶対にやってくれる」と信じて、深夜、マイナス40℃の地下排水溝を匍匐前進する祖父たち。暗闇と異臭と冷気に包まれた3人は、ソ連兵に見つからぬよう尖らせた全神経と「なんとしてもパンを宿舎へ持って帰る」という使命感だけを燃料に、一歩一歩前進していく。

ついに監視の目の光る広場の中央へ着いた。恐る恐る地上に顔を出し、辺りを見渡すと、あった。パンだ。やった!食料庫の奴は危険を顧みず約束を守ってくれた。喜ぶのも束の間、今度はパンを懐に詰めて元来た道へ引き返す。3人は宿舎に戻るまで一切口をつけなかった。

300メートルはある錆びた排水溝を再び這って帰ると、そこには仲間の捕虜たちが固唾を呑んで待っていた。胸元からパンを取り出す祖父たち。声に出さない歓声に包まれた。パンは排水溝の中で水浸しになり、すっかり泥まみれだった。祖父らはそれをその場にいた全員で分け合い、味わって食べたという。

「あのとき食べたパンが人生でいちばん美味しいご馳走だった」

祖父は弟にそう言ったそうだ。

90歳を超えても聡明だった祖父がこの話を2時間かけてしてくれたとのことで、僕の拙い文ではまったく何も再現されていないのだと思うけど、それでもこうして文章に起こしてみると壮絶さに思いを馳せずにはいられない。

そんな話を京都の弟から電話で聞いた直後に冒頭のツイートに出会った。なんだかうれしかった。祖父とばったり会えた気がした。

「こんな壮絶な体験をした人が身近におったとはねえ」

電話口の弟は僕に話しながら「兄ちゃんも直接聞けたらよかったのに」と残念がった。まったく同感だが、もう叶わない。

そういえば妻のおじい様も、戦争で大変な目に遭っているはずだ。沖縄。那覇で新聞記者をされていた。晩年は戦争に関する書物を編纂されていたと聞く。きっと想像もつかない体験をされたはず。

いつか家族で沖縄にも行かねば。

いま、自分たちが生きていることが奇跡に思えてくる。
いのちの連鎖が続いていることへの感謝を「忘れな」い。

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ツイートしてくださった唐木さん、ありがとうございました。おかげで、墓参りに行けない今年でしたが祖父に思いを馳せることができました。

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