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現場レポ:写真がうまくなっちゃうワークショップ(後篇)

前回は、鈴木心の写真がうまくなっちゃうワークショップ(略して 写うま)の全6回のサマリーや、最終回直前の取り組みについて書いていきました。

今回は最終課題「写真集を作る」に向けたメイキング。16歳から現在までに撮りためてきた「自分のバナキュラー写真」から話を始めます。

ソスを起点に、自作のコンセプトを考える

先々週、作品撮影のために帰省し、高校〜20代前半に撮っていた写真のネガを実家から持ち帰りました。

見返すのも途方に暮れる分量ですが、ソスのやってきたことを自分なりに再解釈して再構築するにはうってつけの材料だと考えています。恥ずかしいほどに当時の写真はアラーキーの影響を感じますが・・・。


実家では、2歳まで住んでいた生家や創業50年になる自営業の父の仕事場、父、母、そして亡き祖父母の法事なども撮ってきました。

「写うま」がなければ撮らなかった、真正面から捉えた写真たち。

でも待てよ。

ロードトリップの行き先を自分の実家とその周辺にしたことから、広く開けたアメリカン・ロードトリップとは真逆の、日本人にありがちな「ノスタルジーへの回帰」みたいなことになっちゃわないか?いかん!どうしよ!でもその距離感じゃないところで撮りたいんだ!あれ?!くそっ!

そんな「五里霧中なう」で、心さんの言葉が降りてきます。

「肉親や家族以外を撮ったら?」

「アレック・ソスはドキュメンタリーの人だから、伊藤さんにとってのドキュメンタリーは何なのかを考えてみたら?」

「これから作る写真集に、伊藤さんならではの公益性って何ですか?」

コ、コーエキセー?


「あなたの写真の公益性はどこから?」

言語化された意図をもつ写真たちを束ねた先に、それをめくる第三者が何を受け取ってくれるか。自分では意図を束ねたと思っても、それが他人に伝わらなかったら「伝わる写真」じゃない。

では僕は何を受け取ってほしいか。やばい、それが作品を作るってことか。世の中にエクスキューズする、問いを投げるってことか。

ここでも「アレック・ソスの公益性は何なんだろう」という問いが道しるべになるわけです。

撮りためた写真を眺めていたある日、「リモートワーカーを撮りたい」という考えがよぎります。

ドキュメンタリーについて。

▼リモートワークが浸透したことで、「土地に根を張る」ことから解放された人が増えている。自分もそのひとり。だが、相変わらず東京の狭いマンションで暮らしている。僕ではなく家族は、この土地に根を張っているから。▼東京の会社に籍を置きながら、地元に帰って東京とリモートで働く知り合いもいる。彼女は「土地に知り合いがいない」と寂しさを口にし、定期的に上京している。▼土地という縛りがない生活は解放感をもたらしたのか。ご近所付き合いが希薄な東京から解放されたとき、求める繋がりとは。

自分のInstagramより

で、そのことを妻にも話してみました。
そしたら全否定されちゃいました。

妻に現状報告をしたら「リモートで働く地方移住者を撮りたいって、それあなたの写真に必要なことなの?なんで?なんのために?見知らぬ土地に行って写真を撮ることは否定しないけど、そのコンセプトいる?って思っちゃった。撮りに行くのは構わんよ」と言われ、うまく返せなかった。付け焼き刃のコンセプトにすがろうとしてないか?と言われたような。アレック・ソスのやっていることのどこに着目するか、再度考えよう。

自分のInstagramより

うまく返せなかった。じゃねーよ!と我ながらツッコみたくなりますが、腹落ちしてないという証拠。

翌朝の心さんからも「あなたの写真にとって必要なの?って、つまり、あなたらしいって何?ってことだよね」と言われ、自分が安易に落ち着こうとさせていたことを痛感。

電車で移動中、『A Pound of Pictures』をスキャンして作った手製のコンタクトシートをずーっと見ていました。


やはり、答えはもう出ていたのでは?という気がしてきました。

写真を始めた16歳から42歳の現在まで好き勝手に撮ってきた「自分のバナキュラー写真」。それらの再構築と、旅。写真を巡るドキュメンタリー。

「リモートワーカーを追いかける」よりもむしろ公益性は後退している気もしますが、すでにそういう人々も声をかけて撮っていたので、それも含めちゃおうと思います。

「旅の間は何かを探そうと集中力を高めているんですが、ドライブに出てしまうと、世界に圧倒されてしまう。なので、あくまで被写体に辿り着くまでのきっかけとして、メモの言葉を記しています。釣りをする時は、この魚を釣ろうと思いながら行くでしょう。でもそういう時に別の魚に出会えることもある。その偶然をつかみ取るのが私の仕事なんです」
被写体が人物の場合も同じだ。多くの場合、ドライブしながら偶然出会った人とポートレート撮影を行う。(中略)

「ハーフコンセプチュアル」とソスは言う。コンセプトを設定しつつも、それに縛られず偶然を呼び寄せるのだ。

BRUTUS アレック・ソス インタビューより

ずるいなぁ。
そのずるさも憑依させてやりきるか。

明日、縁もゆかりもない(嘘、元同僚で歌人の岡本真帆さんが住む)高知県四万十市に行って撮ってきます。


「伝わる写真」の旅は続く・・・

写真は過去を振り返らせてくれる最も簡便で雄弁な装置です。編集するごとに「懐かしさ」とはなんと魔力を秘めているのかと実感します。と同時に、心さんから投げかけられた「そこに公益性はあるのか?」という問いが、作品化するためには避けて通れない道でもあります。

「たんなるノスタルジックなものにはしたくない」けど、ノスタルジーを否定もするつもりはない。甘んじない、ということ。

じゃあ、自分にとってまったく懐かしくない場所に行って、そこでも懐かしさを撮ることはできるのか?・・・あ、日本国内ならできちゃいそうな気がするなぁ。海外でもそれができるのか試したいな。でもそれは難しいなぁ・・・。

ソスは「写真は、物語そのものを描く小説や映画というよりは、物語を人々に想起させる詩に似ている」とさまざまなインタビューで答えています。物語を作るのはあくまで受け手であり、写真家はその芽を集める人なのかもしれません。

では、その物語の萌芽を感じさせたい相手は誰かのか?誰に伝えたいのか?そのことを考えることが、公益性を具現化させる手がかりとなりそう。

ソスのことは調べれば調べるほど「ただ撮るだけだぞ」と言われているような気にもなってきますが、写真集のデータ入稿まで残り10日ほど。ちょっとこの数日は考えすぎて撮れなかったので、明日の高知撮影でさらに考えます。(終わるのか・・・?)


「娘の成長記録を写真集にまとめたい」という当初の目的からずいぶん遠いところへ来ちゃいました。「写うま」は写真がうまくなっちゃうと同時に、世界を見る目も変える。変わる。そんなワークショップです。

写真の深淵へと、足を踏み込んでみてください。


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