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「How much?」がない世界は、果たして便利なのか、楽しいのか。

2019年8月19日、ウズベキスタン初日。早朝2時に首都タシュケントの空港に着き、夜が開けるまで到着ロビーで寝た。早朝たまたま出会った日本人の親子と一緒にタクシーで市内へ。

「ファイブドラー」と相場の3倍くらいの値段でふっかけてくる運転手。自分に自分にと群がってくる感じ。嫌いじゃなかったりする。

その日の午後、たまたま宿が一緒だった20代後半の日本人と市内を巡ることに。まず駅に行き、今後の電車のチケットを買い、有名なチョルスバザールへ。歩くには少し遠いその間を、タクシーで行こうという話に。
「ウズベキスタンにはこれがあるんだよー」
と見せてもらったのは配車アプリ。いわゆる現地版Uber
相手が社会人ということもあり、サクサクと何度かタクシーを呼んだ。もちろん毎回アプリで。

配車アプリの1番の強みは「ぼったくられる可能性がない」海外においてタクシーは相場の何倍もの破格で持ちかけられる。

だけども、なんだろう。なんとなくもの寂しいなぁと思った自分がいた。

便利になると失うもの。
人に聞かなくてもGoogleマップで行けてしまう現代。旅ブログ通りやれば大体スムーズに行く。ジェスチャーをする前に翻訳アプリを出したり、ネットの評判からレストランを選んだり。

たくさん便利になる中で、失ってるものがたくさんある。

旅先でも便利って全然面白くないかも。


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