「モダンサッカー3.0」への二つの視点

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今回は、ソルメディア社「モダンサッカー3.0 「ポジショナルプレー」から「ファンクショナル・プレー」へ」について二つの視点から書いていきたい。
ペルージャU19を率いるイタリアの新進気鋭の指導者アレッサンドロ・フォルミサーノと「モダンサッカーの教科書」シリーズなど数多くのコラボレーションを手がける片野道郎さんとの共著である本書は、フォルミサーノがイタリアの育成年代での指導経験と様々な分野の学問的研究から編み出した独自のサッカー理論について対談(鼎談)形式で掘り下げたものだ。
内容に入る前にまず言いたいのは、私はfootballistaでのフォルミサーノと片野さんの連載を読みフォルミサーノと自分のサッカーへのアプローチが非常に近いことに驚き、刊行の情報がリリースされた時から発売を楽しみにしていた。そしていざ読んでみると、片野さんのまえがきにある通り知的刺激に溢れて、フォルミサーノと自分のサッカー観を比較検討することでさらにサッカー理解を深めてさせてくれる濃密な内容だった。
そしてその面白さ故に、読んで自分が考えたことを久しぶりにnoteにまとめることにした。意見や異論は大歓迎なので、ぜひTwitterのリプライや引用ツイートで教えてほしい。

1_ ゲーム理解から導き出されたトレーニング論


第1,2章でフォルミサーノは「複雑性が高く同じ現象が二度と起こらないサッカーというゲームに対し、監督が決めた戦術を選手に遂行させる、というアプローチは本当に正しいのか?」という問題提起をし、イタリアの育成年代での指導経験と様々な分野の研究から導き出した解決策として「選手→監督というベクトルの、全体論的でエコロジカルなアプローチ」と提案していた。

これはこの本の中で最も重要なポイントであると同時に、個人的にも大いに賛同できる。

私がnote、Twitter(X !)で数年にわたって書いてきたことと非常によく似た視点・主張で、自著かと思うほどフォルミサーノのとるサッカー理解へのアプローチは自分のそれと近い。

戦術論やトレーニング論といった実際的な問題に対する手っ取り早い解決策に走らずに「そもそもサッカーとはどんなゲームなのか?」という問いを立て、自分のサッカーへの態度そのものから見直すという作業をした結果、問いへの答え方は異なる(参照している主要な学問分野が違う)が、フォルミサーノと自分は現時点では同じ答えに行き着いている。

「指導者(監督)側からの解決策の提示を行わず、制約操作をした環境を用意することで選手たちがピッチ上で問題を解決するのを促す」
というトレーニング方法は、自分自身も採用している(実践した経験があるしこれからも深めていく)もの。

続く章で解説される理論のディティールを支える大枠のサッカーへの解釈はとても納得感のあるものだった。

2_ 分析における「意思」


第3章から行われる4局面の捉え方や選手の役割についての解説の中で、「情況」「意思」という言葉をフォルミサーノは頻繁に用いていた。一般的にサッカーは攻撃・ネガトラ・守備・ポジトラの4局面があると理解されるが、フォルミサーノはこの解釈はサッカーというゲームの実像を正確に反映していないとする。
85分の時点で2-0でリードしているチームがショートパスでポゼッションしているときの意思は攻撃あるのか守備にあるのか、といった例えを交え、画一的に攻撃・守備と分けるのではなく「情況」や「意思」を考慮するべきだと彼は主張するのだ。
後に続くプレッシャーラインの再解釈やアトラクター・フィクサー・インベーダーといった「機能」で選手のプレーを整理する背景にはこの考え方が存在している。

ここで、「サッカーを整理する枠組みや分析において『意思』をどの程度考慮すべきか?」という問いを投げ掛けたい。

自分の答えは「少なくとも自チームを除いては出来る限り『意思』は考慮すべきではない」。

皆さんはどうだろう。

自チーム分析においては「この選手は〇〇をトライしようとしていたのか」「この場面を『もっと強くプレスに行ける』と解釈していたのか」など、事前に共有された戦術やコンセプトの理解度・遂行度を知るために「意思」を考慮に入れることは可能であり有効な手段となり得る。

ただし、サッカーを整理するための理論的枠組みや対戦相手分析、(シティを見てビルドアップを研究する、のような)勉強のための分析に関しては事情が大きく異なる。ピッチでプレーしているのは自分たちが抱えている選手ではない。

これらの場合「意思」が分析のフレームワークにおいて重要な役割を果たすのは危険だと言える。

あなたが「このチームは意図的にブロックを組み、見事耐え切って勝利した」と分析した一方で、当事者は「ブロックを組む展開にしたくなかったが、結果的にそうなってしまった」とコメントしていたり、単純に「ビビっていた」なんてことも全然有り得る話だ。

そのプレーに存在していた意思や意図は当事者にしか分からないのなら、「何をしようとしていたのか」を切り捨てなくとも小さな要因に留め、冷徹に「実際に何が起こったのか」を見つめることがサッカーの整理と分析にとって必要ではないだろうか。

サッカーというゲームには、自分たちと全く同じように意思を持った相手が存在する。自分たちが何度も何度も繰り返し映像を分析し対策を練り上げるのと同じように、相手もあらゆる手段を講じて自分たちを攻略しようとしている。互いの思惑が作用し合ってゲームは展開されるし、その結果として生まれるものを予測することは難しい。「何をしようとしたか」と「何が起こったか」に直接の因果関係はない。

相手の意思を「意思」として受け取ることによりそれを理解しようとする試みは不必要に自らを混乱に陥れてしまう。

よって、私は「意思」が自チームを除いた分析の中心に位置することを好ましいとは思わない。分析を通じて構築される理論的枠組みについても同じことが言える。サッカーという相互の意思がぶつかり合うゲームを理解するにあたり、サッカーから意思の存在を排除するわけでは決してないが、相互作用を抜きにした初期段階の「意思」が私達の思考に与える影響を小さく留め、単なる事象として客観的に捉えるのがより適切な方法だろう。

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