私にとっての良書

読書愛好家にとっての永遠のアポリア。それは、家の中で勝手に増え続ける本をいかに御するかということだ。まだ科学的に実証されてはいないが、おそらく本というのは生物に限りなく近い存在なのである。
 実際にウイルスというものが生物学者の間で生物なのか非生物なのかは意見が分かれるところであるが、私見を述べれば、ウイルスと最も近い類縁関係を持つもののひとつは本であろう。
 北原白秋や茨木のり子に限らず、言葉は生きものであると考える人が一定数いる。そしてこの発想は私の上の仮説を説得力あるものにしてくれるかもしれない。言葉のひとつひとつが相互に影響を与えいきいきと響き合うことは、あたかも生物の細胞ひとつひとつ、器官の各々が有機的なつながりを持ち、生きた形態として成り立つことに似ている。統一的な身体にとっての細胞は、書物にとっての言葉である。たくさんの言葉の調和が一冊の本となり、たくさんの細胞の調和が一つの身体となる。ここまで類比を進めれば、この二者の共通点は自然と浮かび上がってくる。どちらも生命を宿すのではないか?一部は全体を構成し、全体は一部があってはじめて成り立つ。堅固な土台があり、その上にどんどん積み上げていくというのは建築物だ。建築物は命を持たない。それぞれの部分がそれぞれに関係し、全体としてまとまりを持つ。そういうものを命と呼ぶ。そう考えると、「言葉は生きものである」という言い回しはあながち単なる詩的表現などではなく、真理を確かに言い当てているのかもしれないと思えてくる。

いまでこそ図書館や古本屋に足しげく通い、家では本の置き場に困ったりしている私であるが、実を言えば私は五年前まではほとんど本を読まなかった。日常で触れる文章といえば現代文で出題される評論や小説、ツイッターのつぶやき程度だった。本に対して特別苦手意識や抵抗感があったわけではないので、本は避ける避けない以前の対象だった。そもそも私にとって意識に上るような対象にすらなっていなかった。それでも周りから「本をたくさん読んでいるでしょう」と言われることはしばしばあったが、滅相もない。
 では、私が本を読むようになったきっかけは何か。それは大学の入学式での学長の挨拶だった。当時の学長は医学を修めた人だったが「本を読みましょう」と言っていたので、文学部の私は馬鹿正直に「本と言うのは読まなくちゃいけないものなんだな」と思い、そこから図書館に通うようになった。思えばここが、読書というものが初めて私の意識に上った瞬間だった。そうしてどんな本から読みはじめたのかはあまり覚えていないが、なんとなく関心のあった宗教学の本や、世界史が好きだったこともあって歴史の本などを読んでいた気がする。そして一冊読めば参考文献やら引用文献にも興味が湧き、次読む本は芋づる式に決まっていくので、読む本は増えることがあっても減ることはない。
 そうして本にまみれた現在に至るわけだが、本を集めれば集めるほど興味関心が広がることを実感する一方で、自分の持つ嗜好も顕著になる。改めて本棚を眺めると、まるで自分の脳内がそのまま可視化されているようでなんだか気恥ずかしい。私の考えること話すことのほとんどは本棚に集約されている。法律家で政治家、そして美食家のブリア・サヴァランは「どんなものを食べているか言ってみたまえ、君がどんな人間であるか私は言いあててあげよう」と(おそらくゲーテの言葉をもじって)言ったが、私に言わせれば、相手がどんな人間であるかを知りたいなら、かれの本棚を見るのも一つの手だ。

そうしてこの数年の間にいろいろな本を読んできたわけだが、その過程で私にとっての良書の定義が大方定まってきたように思う。私が読む本の大半は既に定評のある古典なので、インチキ本やキテレツ本はほとんどお目にかかったことがない。面白かろうが面白くなかろうが読むべき本の内でも、これは特に読んでよかったと思える本が私にとっての良書の基準の一つである。
 では、この「読んでよかった」と感じる本に共通するものはなにか。そういう本には、「希望のきらめき」があるのである。こういう風にいうと幼稚な印象を抱かれるかもしれない。だが私の中には確かにそういう確信がある。良書というのは読み進めていくうちに、ふと心の中になにかきらっと光るものが生まれる。そうして一度宿った光は、その本を読み終えた後も人生の場面で事あるごとにきらっきらっと瞬く。それは、ある時には弱くちらつき、またある時にはまばゆいほどに。チャペックや、ラ・ロシュフコーや、チェーホフ、ショーペンハウアーなどに私はそういう光を見出す。物語であれば結末は決して楽天的なものではないし、人間や世界に対する考察であれば鋭いがゆえに厳しさがある。しかし、そこにこそ人間に対する愛情や、信頼や、希望が感じ取れるのだ。表面的な部分だけを見ていては見えない光がそこにある。表面だけ飾り立てられた言葉は生命を持たない。それはただ紙に印刷された文字であり、心にまで入り込んできて希望のきらめきとなり生き続けることはない。反対に希望のきらめきは私の魂の一部となり、私の一部となって私の生を勇気づけてくれる。そういう光を宿した本。私にとっての良書とは、そういうものだ。


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