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痛みさえ手放すということ

私の場合は朝10時と決まっている。毎日小さな一粒を飲み込む。規則正しく服用を続けることで、微かに甘い“それ”は効果を発揮する。気づけば五年以上続けている――

痛みとは不快なもので、どんな性質のものであれ痛みから遠ざかりたいと願うのは全くもって自然なことだろう。しかし、だからといってすぐさま外科的物理的な処置を施すことによって痛みを取り除くことは、身体の内側からの声をかき消してしまうことにならないだろうか。痛みという経験とその意味を深く考える機会を失ってしまうのではないだろうか。

スーザン・シャーウィンは『もう患者でいるのはよそう』の中でPMS(月経前症候群) を疾病と認めることの功罪について論じている。PMS が医学文献に顔を出すようになったのは20世紀に入ってからである。つまり、それまでは病気でなかった。そして「症候群」という名の通り、PMS には不特定多数の症候が含まれる。乳房の張りや頭痛といった身体症状から、抑うつやいらだちといった精神症状まで幅広い。しかし、あまりに多くの症状をPMS に含めてしまうと、単なる自然で周期的な心身の変化すら病気、つまり「普通の状態が病気」という矛盾が生じる。

ここで一旦女性特有のものに限らず、広く「病気」と「健康」という概念に目を向けてみると、これが一筋縄ではいかないことが明らかとなる。「病気」とは、単なる身体に生じる問題の定義にとどまらず、ある種のレッテルであり、そこには重大な価値判断、社会的・政治的意味が伴うのである。特に病気の定義を精神障害やホモセクシュアリティといった精神的・社会的規範までに拡大することは、それらに対する我々の態度を決定する大きな要因になる。医学の言葉は現実の世界を作り上げるのである。一度「病気」の烙印を押されると、当人は問題含みの心身を抱えた弱い者、「普通」から逸脱した者といった、多かれ少なかれ自分の中の負の側面を強調されることになり、腫れ物扱いを受けることになる。病気になると、その身体はもはや素人には手に負えず(自分の身体にも関わらずである)、病院での検査、医師の診断、治療の対象として自分の身体をすっかり他人に明け渡してしまい、自分から疎外してしまう。それだけでなく、「病人」や「患者」といった評価を内面化してしまうことは、自分というもののアイデンティティを他人からの評価に委ねてしまうことにもならないだろうか。それにしても、精神的な状態を科学的規準に照らして客観的に定義することは、医学にとって果たして可能なのだろうか。自分の心身が病気かどうかの決定権は、一体誰に委ねられるべきなのか?医学の言葉自体は中立的かもしれないが、その言葉を発する人物や社会の状況が中立であるとは限らない。私たちには、その複雑な構造、病気をとりまく多くの利害を見極めるための広い視野を持つことが要求される。フェミニストであれば、殊に女性という集団が被る抑圧がないかどうかに目を光らせる。

そもそも、「病気」と「健康」の二元論や、心身にまつわるあらゆる問題を医学のモデルに当てはめようとすることがはじめから無理な要求なのである。心身の不調は、なにも医学的アプローチによってすべて解消しなければならないという決まりはないし、その必要もない。しかし他方で病名が診断されると安心するという側面も確かにある。原因不明の不安やいらいら、謎の腹痛やだるさといった心身の不快な状態に対してPMS という名前が与えられると、「そうか、PMS という病気だからこんなにしんどいのか」と腑に落ちる。もちろん、「なんで私が」という理不尽さは消えないものの、漠然としたものを相手にするよりも、概念として捉える、つまり対象化しその対象に形を与えることは、私たちに安心感と納得感をもたらすのである。これはグリム童話のルンペルスティルツヒェンの物語のように、名前を付けると相手を支配できるという考えに基づくものかもしれない。さらにその名前は第三者、それも医学という権威によって授けられるため、大義名分として不足なしである。ピルや子宮頸がん、月経困難症にはじまる婦人科疾患に関する偏見も大分薄れてきた昨今、PMS という病名を受け入れることも、名乗ることへの抵抗感も弱まっていると考えられる。月経にまつわる経験を無機質な医学の言語で包むことによって、それを語ることに伴う後ろめたさや恥ずかしさ、グロテスクともいえる生々しさはさらに軽減される。しかし現実にあるのは、赤黒いレバー状の子宮内膜であり、局部の蒸れた血生臭さであり、シーツやボトムスに染み付く血液であり、下腹部の鈍い痛みであり、些細なことに対する苛立ちであり、抗い難い眠気であり、際限のない食欲であり、頭の重さであり、普段以上の尿意であり、これだけの不快な状態が一ヶ月のうち一週間も続くという理不尽さであり、にも関わらず周期性を度外視した学校や会社では「いつも通り」に振る舞うことが当然とされることへの不満なのである。

結局シャーウィンの回答は以下のようにまとめられるだろう。女性にとって不利な性差の根拠としてPMS が持ち出されることに関しては抵抗するべきである。大半の女性が経験する心身の変化をPMS という病気と見なすことよって、つまり「性差が病気」という烙印を押すことによって、男性とは異なった女性の経済的、政治的地位を説明し正当化することは拒否すべきであるということ。また、PMS を疾病と見なすことで、誰の利害が関わるのかをしっかりと見定めるべきである。そうすると、実際は医学の専門家や製薬会社の莫大な利益となっており、しかもそれは必ずしも患者としての女性の利害とは一致しないということが明らかとなる。「それゆえフェミニストは、PMS を女性一般に見られる病気とする考えを拒否すべきである」(209頁)。しかしこのことは当然ながら、女性の月経前の身体の変化を否定しているのでもなければ、病院で処置されるべきような婦人科疾患は存在しないとシャーウィンが言っているわけでもない。そうではなくて、医学的な検査を受ける方法以外で自分の身体と向き合い、その訴えに耳を傾け、医学の言葉を使わずに自分の言葉で自分の身体を表現する。そういう自分の身体との関係の結び方を提案しているのである。

痛みは触覚とは異なり、当人にしかわからない上にその感じ方は人によってまちまちである。加えて身体的な痛みの他に精神的な痛みもあり、その中でも痛みの種類は様々である。PMS や月経痛には身体的な痛みの症状があるが、たとえ身体の症状だからといって投薬などですぐさま身体にアプローチをするというのは、あまりに人間のことを機械的に見すぎではないだろうか。心身二元論という幻想に冒されているのではないだろうか。ユダヤ人生物学者のルドルフ・シェーンハイマーが、およそ100年前「生命は機械ではなく流れだ」と既に言っていたにも関わらず。PMS だけでなく摂食障害も、食べないのだから食べれば解決、不登校も、学校に行けば解決という問題ではない。食べないことも、学校に行かないことも、あくまでそれまでずっと孕んでいた問題が表出した「結果」に過ぎないのであって、問題の「原因」ではない。原因と結果を取り違えてはならない。

人は困難や痛み、不快に直面してはじめて反省したり立ち止まったりすることができる。身体の痛みの場合は、自分の身体と向き合う機会を与えるのである。自分との対話はそこからはじまる。あまりに短絡的に、「痛いのは嫌」、「いつも通りに動けないのは不便」という理由から鎮痛剤を飲んだりピルを飲んだりするのは、自分の身体と向き合うせっかくの機会を易々と逃してしまっているのではないだろうか。自分をいたわりケアし、弱さvulnerability を受け入れることは、決してわがままでも自己中心的な振る舞いでもない。それは、自分を理解し、ひいては他者を理解し、許すことに繋がる。ところで、「体調管理」という言葉をよく耳にするが、あれはあくまで社会の側の要求であるということをここで言っておきたい。私たちは、「体調管理」という言葉を「体調の自己管理」という意味で理解し、それによってその規範を内面化することによって結果的に社会に管理されているのだ。つまり、使い捨てのコマであるにせよ、いつでも使いやすい状態で準備しておけと暗に指示されているに過ぎないというわけだ。しかし実際のところ、自分の身体は自分にとっても謎めいていて、意識的にコントロール可能な部分はごくわずかしかない。体が休めと言うときは、私たちはおとなしくそれに従うしかないのだ。

閑話休題。これは私の考えであるが、月経に関する痛みとは、女であることの痛みなのだろう。つまり、生きることに不可分の痛みである。女として生まれたというそれだけの理由で、周期的な出血、痛み、不安に苛まれる。PMS や月経困難症という名前がつけられる以前にも、女性にまつわる痛みを感じて生きていた女性は数え切れないほどいただろう。そして、このnote を読むあなたにも想像してほしい。今日会話した女性、すれ違った女性、電車で見た女性の何人が今まさに血を流し、痛みを感じているかを、先に挙げた現実を生きている女性が何人いるのかを。これは想像する側にせよ、想像される側にせよ、双方にとって決して心地よい想像ではない。しかし、想像の先の現実へと目を向けるために必要な営みなのである。それが、肉体を具えながらに想像力も併せ持つ人間の仕事なのである。ショーペンハウアーが『道徳の基礎について』で、キャロル・ギリガンが『もう一つの声で』で語った女性に顕著な徳は、女性という身体を具えていることに依存しているのであろう。ここでいう性とは、ジェンダーではない。動かし難い身体の性である。

痛みとは、自分がこの世界に身体を持って生きていること、 世界のRealität の何よりの証拠である。そしてそれは、他者と共に生きることの第一歩なのである。逆に言えば、自分の痛みを手放すことは、他者の苦しみを理解することの放棄をも意味する。この世で最も残酷な人とは、一度も挫折したことがなく、後悔したことがなく、負けたことがなく、間違ったことがなく、怪我も病気もしたことがない人である。つまり、「痛み」を感じたことのない人である。自分の身体を通して、痛みを感じて生々しい肉の声を聴くことによってはじめて、他者の痛みをも感じ、他者も自分と同じ血の通った人間であることを知るのである。ベルクソンが『笑い』の中で鋭く指摘したように、痛みを感じない身体を持つ機械は笑いの対象にしかならない。そこには距離が存在する。私たちは傍観者になってはじめて笑うことができるのである。

既に述べたように、痛みはvorstellenできる性質のものではない。つまり客観的に観察可能な対象とはならない。このことの意味をよく考えるべきである。要するに、私たちはどんな種類のものであれ距離をとりながら痛みを経験することは不可能なのである。それは他人の痛みを目の当たりにした時も例外ではない。痛みは、自分と他人の距離を可能な限りゼロに近づけ、自分と他人の垣根を可能な限り低くする契機となるのである。「真の優しさは主観性が破壊されるところにのみ現出しうるのであって、優しさもまた本来は自然的概念であり、対象的概念ではない」(日下部吉信『ギリシア哲学30講(下)』316頁)。優しさの現出は、痛みを契機にしてはじめて可能となるのである。そして、痛みもまた優しさと同様に対象的概念ではない。

共に苦しむこととはつまり、共に生きることなのである。そして、そこにおいてはじめて本当の優しさが、本当の倫理が現れるのである。


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