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自分で自分を供養する

タイトルからは予測できないかもしれないが、ここではストレスの対処について話す。最近ぼんやりと考えているのは、ストレスを鎮めるとは「自分から自分を切り離す」、もっと言うと「自分で自分を供養する」ことではないかという仮説だ。

私は小さい頃から絵を描いている。誰に教えられたわけでもなく、気づけば紙とペンを持っていた。物心ついたころから中学校くらいまでは、比喩でなく本当に毎日毎日絵を描いていた。今はさすがにそれほどではなくなったが、やはり絵は描いている。絵を描くことは私にとって当たり前すぎて意識したことはなかったのだが、最近ふと気づいたことがある。私が絵を描きたくなるのは、なんとなく不安だったり、イライラしたり、落ち着かないときが多いのだ。
 心が不安定なとき、絵を描く以外には、爪を噛んだり、髪を抜いたり、皮膚をむしったりもした。こういった自傷行為は、今はそれほどひどくはないが、それは単に今はストレスが少ない状況下にいるからだろう。ストレスを与えればすぐにでも再開すると思う。
 他には、よくしゃべるようになる。つまり、不快だったりむかついたことを徹底的に分析したくなる。自分がなぜ怒りを感じているのか、なにに納得しなかったのか、といったことをとにかく吐き出しまくる。話しながら考える。目の前の理解困難な事象に、なんとか落としどころを作ろうとするのだ。

こういう自分の行動を振り返った時、ある共通点が浮かび上がってきた。それは、「自分から自分を切り離」しているということだ。絵を描くことと話すことは、自分を表現することによって自分の精神を自分から切り離しているし、自傷行為は自分の肉体を物理的に自分から切り離している。切り離してしまえば、不安やイライラは一時的にでも収まる。
 パソコンだって、不要なデータがあったり、裏で作動しているアプリがあれば重くなる。パソコンのデータ整理はするのに、人間のデータ整理をしないでよいと、どうして言えるだろうか。むしろ、人間のほうがデジタル化できない複雑で繊細なデータを抱えて日々生きているのに、こちらを放っておくほうが後々大変なことになりそうではないか。確かに、人間の場合「忘れる」という便利な機能が備わっているが、嫌な記憶の場合は意識的に対処しないと何度も何度も蘇ってくる。そう簡単には消えてくれない。そして、そういう時の対処法が「自分から自分を切り離す」ことなのではないだろうか。

冒頭で、「自分から自分を切り離す」とは、「自分で自分を供養する」ことだとも言った。なにも本当に自殺したりするわけではないので、あくまでも比喩的象徴的な表現なのだが、「自分から自分を切り離す」、といっても単に切り離しておわりなのではなく、ちゃんと弔わねばならない。つまり、その問題を問題として正しく同定し、自分でちゃんとけりをつけるということだ。というのも、そう思わされる体験があったのだ。

私は以前、ある事件(というのも大げさだが)に関わっていた(というより、巻き込まれていた)。その事件からは既に3年以上経っており、一応落着したようではある。しかしその3年間、私は私の置かれた状況について、誰にも相談せずに過ごしてきた。自分が深く関与しているわけでもないしという気持ちがあったし(実際は主要な登場人物だったのだが)、気軽に話せるような内容でもないし、気軽に話せるような相手もいなかったからだ。今後もそういう人は現れないと思っていた。ところが、先日そんな人が急に現れた。同じ事件に関与していた人だった。ずっと身近にいた人だったが、急に現れたのだ。
 どういうわけかその人と二人きりで話す機会が訪れ、例の事件の話へと自然に移っていった。まるで3年越しに答え合わせをするよう、何者かに導かれるようだった。そして夜通し語り合った。そしてわかった。その事件に関して、私もその人も、自分よりももっと苦しい思いをしている人のために行動しており、自分の感情を置き去りにしてきたのだった。私たちは、それぞれちゃんと苦しかったのだ。それが、そんなことが、3年越しにようやくわかったのだった。
 最後には、「わたしたちよく頑張ったよ」という言葉が、相手に言うでも、自分に言うでもなく自然と漏れ出た。そして、ようやくこの事件は終わった、そんな気がした。

この経験は、人に心を打ち明けることで「自分から自分を切り離す」というだけでなく、「自分で自分を供養する」ことが大事なのかもしれない、と思わせる出来事だった。「わたしたちよく頑張ったよ」は、ぽろっと出てきた言葉だったが、これこそが自分たちへの労りであり、弔いであり、供養だった。一人では決して言えなかった。誰かに認めてもらう必要があった、同じ苦しみを抱えた誰かという、鏡合わせの自分に。それを見つけるのには大変苦労した。だから3年かかった。

聞いた話によると、「供養」という言葉は、サンスクリット語の「pūjā(プージャー)」から来ており、もともとは「尊敬」を意味する語らしい。「自分で自分を供養する」とはつまり、「自分で自分を尊敬する」ことなのだ。そして、それが救いとなる。

「自分を自分で供養する」ことは、ひとつの作品を仕上げること、ひとつの結論を出すことといってもいいかもしれない。だから、単に破壊行動をする(自傷行為も含む)とか、他人を謗ることとは違う。供養は、現在と未来に関わる創造的な行為なのだ。単に消費するだけではバランスが悪い。なにかを生み出すことこそが、人を明るい気持ちにして、また立ち上がる勇気を与えるのだ。これは大江健三郎のいう「恢復」とほとんど同じと言ってよい。大江はこう語る、

ほかならぬ自分のつくる音楽あるいは文学によって、魂の暗い深みに入りこまざるをえない、そうしたところにあるものを発見せざるをえない、その不幸ということは、たしかにあります。同時に、その表現行為によって自分自身が癒やされ、恢復するという不思議・幸せといってもいいものがある。

大江健三郎『あいまいな日本の私』岩波新書、1995、49-50頁

また、ある時ある人が「文章を書くのはクソをするのと同じ」と言っていたが、これは言い得て妙だと思った。食うだけ食って便秘はつらい。ウンコを出さなければいけない。ウンコは出せばすっきりする。また大いに食べようと思える。快便は快感だ。
 閑話休題。先にパソコンの例を挙げたが、人間がかかる病気だって、ストレスをため込んでいるからなるものもあるのではないか。そして、病気にかかることだって、ある意味自分から自分を切り離そうとしているのではないだろうか。身体としての、あるいは精神としての自分と向き合うことを要請されている状態が、ほかならぬ病気という状態なのではないだろうか。確かに病気に罹るのはつらい。病気になる前の状態に戻ることもできない。だが、恢復は病気があってこそなのだ。そこにおいてこそ、新しい人が眼ざめるのではないか?

とにかく、アウトプットの手段はなんでもいい。話すこと、絵を描くこと、文章を書くこと、筋トレすること…。言葉を持っていなかった私は、絵を描くことで自分を保つことができた。今は少しずつ文章も書いている。しかしとにかく大事なのは、なんでもいいから自分を表現することだ。つまり今日の自分を自分の手では責任をもって供養すること。それが、生まれ直すこと、明日を新しく生きることにつながるのだ。

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