山口雅也著『奇偶』(講談社ノベルス)

これは<偶然>に関する形而上学的思弁小説である。
推理小説では、西欧合理主義に沿う推理による謎の解明が行われるが、本書で扱われるのは、偶然が連鎖する奇偶の世界であり、西欧合理主義による理解を超えた世界である。
この小説は、推理小説的な探求方法を用いて、この異常な事態に迫り、西欧合理主義とは異なる非因果的連結の世界を開示する。

本書で扱われる問題群を列挙してみよう。
カール=グスタフ・ユングのシンクロニシティ理論、タオイズム、クルト・ゲーデルの不完全性定理、ハイゼンベルクの不確定性原理、『ドグラ・マグラ』、南方熊楠の南方曼荼羅、確率論、『易教』、柳田國男の『一目小僧』、パトリシア・ハースト誘拐事件と『黒い誘拐』、『金枝篇』、ライプニッツの二進法、シュレーディンガーの猫、ポール・ディラックの<人間原理>、ニールス・ボーア、デヴィッド・ボームの内蔵秩序……。
高い緊張度を保ったまま、この知的なディスクールが展開される。
ここで列挙したキーワードに反応する方は、ぜひとも本書の一読をお勧めする。

また、これは気のせいなのかもしれないが、読書中、直接は言及されないし、巻末の参考文献表にも掲載されていないが、次のような事柄が浮かんでは消えた。
著者は、フラッシュバックのように読者の脳裏にこれらの事柄がよぎることも計算して書いている可能性がある。
・カール・グスタフ・ユング『ユング自伝』、シンクロニシティを巡るフロイトとの対話が書かれた箇所がある。
・魚(ichthys)、すなわち、イエス(Iesous)キリスト(Christos)神の子 (Theou Hyios)救い主 (Soter)の頭文字。原始キリスト教の象徴。
・コリン・ウィルソン著『迷宮の神』「あとがきにかえて」。ここで訳者大瀧啓裕は、<ウィルソン現象>について語っている。彼がウィルソンについて調べようとしたところ、幸運な偶然が連続し、調査がはかどったという。
・瀬名秀明著『BRAIN VALLEY』。脳の秘密に迫ったこのSFには、類人猿研究を描いた部分がある。
・南方熊楠著・中沢新一編『南方マンダラ』には、土宜法竜宛書簡が収録されている。南方曼荼羅と事不思議については、鶴見和子著『南方熊楠』、中沢新一『森のバロック』が詳しい。
・Y字路を主題とする絵画は、明らかに横尾忠則の絵画を暗示している。ここで横尾忠則の絵画が登場するのは、この本の主題が、精神世界や、人間の心の深淵に向かっているからである。
・荒俣宏著『99万年の叡智 近代非理性的運動史を解く』「7 神秘学としてのコンピュータ」。ライプニッツの普遍代数学構想とコンピュータの関係を説く。
・アーサー・ケストラー『サンバガエルの謎』。パウル・カメラーを題材にした書物である。
・竹本健治『ウロボロスの基礎論』。<人間原理>への言及は、この本と関係があるかも知れない。
・竹本健治『匣の中の失楽』……。
本書は読む人によって、姿を変える変幻自在の書であり、これらの連想も、読み手によって異なってくるに違いない。
本書は『易教』を中心とした偶然性の哲学というべきものに導く。思弁小説としては、申し分がないと思う。
但し、本書の解決は、西欧合理主義による解決にカタルシスを覚えるミステリ・マニアの読者に、同様の満足を与えるかどうか疑問である。
とはいえ、それは本書が非因果的連結というミステリとしては未曾有の領域に入り込んでいるためであり、書き手はそれを承知の上で、あえて書きたい領域を描いたのであると推察される。

初出:2005年09月13日 23:13 ソーシャル・ネットワーキングサイト[mixi(ミクシィ)]内レビュー

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